『老子講義』に寄せて  尾崎元海

 第九講 やぶるれば則ち新たなり……
 この章の初めには、何事、何ものにも把われぬ如何なる形にも、地位にも、物質にも一切把われぬ、心の自由自在性を説いているわけで、老子の根本義が書かれています。老子さんの言葉は、すべて生命の自由自在性を根本にして説かれていますから、読むたびに、心の中が洗われ、雄大なる世界に引っ張りあげられますよね。今回の文章は、その自由自在性から自然と生まれてくる態度が説かれています。大生命から流れてくる自己の本心を惑わさずに生きていくことが、大事であると仰しゃっているんですね。惑いということですが、学問知識でも物質でも多いことによって、相当立派な人であっても惑いが生じやすいというんですね。
 ここの所で、〝弊るれば則ち新たなり〟という言葉が出てきます。五井先生はこの言葉を、実に善い立派な言葉であり、真理の言葉だと言われています。〝消えてゆく姿〟の教えは、この弊るればを、易しく柔らかく説かれているんだ、と説明されています。この現象世界というものは、常に古いものが弊れて、新しいものが生まれでてゆく所なので、いつまでも古いものに把われていると、新しいものが生まれ出ずる邪魔になって、宇宙の運行を妨げることになるというんですね。神さまの大調和のリズムを壊すことになるわけです。これは考えるまでもなく、ちょっと落ち着いてすべての動きを観察すれば、誰もが納得する真理ですよね。古いものが素晴らしく善なる事柄であっても、そのままでいることはないので、古いそのままに執着してはいけない、と書かれているんです。このことは、私達が日常の生活をする場合においても、充分に心得なければいけないことですね。
 これは分かりやすく言うと、新陳代謝の原理ということになります。五井先生はこのことを、消えてゆく姿として教えて下さったわけですね。自己の習慣性の想い、古い事物への把われの想念波動が、消されてゆく姿として、病気や不幸、国と国との戦いなどとなっているわけです。新陳代謝というのは、決して恐れるものではありません。我々が日々、新しい食物をいただき、そして用が済んだものが排出されるというのは、実にありがたいことなんですね。神さまというのは、人類すべての神人としての誕生を願っておられるんですね。その為に救世の大光明という人類救済の光、大きな慈愛の力が現在地球界に働きかけて下さっているんですね。それ故、悪や不幸や病気や災難などを恐れる必要はまったくないんですね。すべてはより善いあなたの環境が生まれ出ずるためのものであり、あなた方が立派な人格を生みなしてゆく為のものであるのですから、この新陳代謝の原理をしっかり心に刻みこんで、世界平和の祈りを祈り続けて下さい、と五井先生は言われていますから、私達は心していかなければと思いますね。
 後半の文章では、聖人という者は宇宙神のみ心のまま生きているわけです。いわゆる自然法爾じねんほうにで生きていますから、そのまま自己の天命がおのずから行われていくんですね。聖人はどのような場面でも、自由自在な心で対してゆくということで、自由自在心を得て、天命を果して、この世の肉身というものを、宇宙神のみ心にお還しすればよい、と老子さんはこの文章を結んでおられています。
 最後の方で五井先生は、〝私の老子講義は、私の心境と老子の心とが、全くぴったり一つになって解釈されてゆく〟と説かれておられます。この言葉はとてつもなく大きな意味がありますね。聖人の中の最高の存在である大聖の老子さんのひびきに直接触れえる私達は、どんなに果報者かと思わざるを得ません。〝老子は、はっきりと生きておられる〟と五井先生は仰しゃっていますから、心の中にこの真実なることを沁み渡らせていかなければと思います。
 五井先生はこの講で、老子の深さ広さには、毎々頭を下げつづけておるのです、偉いとか偉くないとか、そんな段階的な言葉をはるかに超えた神人、大聖者老子と最大限たたえられています。老子さんの豊かな生命力、その烈しい気魄は、私の世界平和の祈りの道の大先達として、無くてはならぬ大きな存在となっている、と言われています。ということは、私達祈りのメンバーにとって、実に老子さんの存在は大きなものとなってきますよね。これは私からのお願いですが、『老子講義』を読まれる時は、伏して拝読すると同時に、読むことそのものが自己を高みに引き上げて下さることと思っていかれることですね。そうしていけば、だいなる効果が現れてきますから、どうぞ実行なさって下さい。
(風韻誌2021年11月号)