『老子講義』に寄せて  尾崎元海

 第二講 聖人は無為の事にり……
 この章では聖人の心境を説かれています。〝相対界を超えた無為の世界にいて、すべての物事、事柄に把われない。自分が為しとげたことでも、その功績にも仕事にも執着しない〟というんですね。そういう人を見るということは、皆無かいむに近いですよね。自由無礙むげ、自由自在心の持ち主であるということで、神霊そのものの在り方としか言えません。この「自由」というのは、一般に使われる次元をはるかに超えた意味があるんですね。わかりやすく言うと、「世界人類が平和でありますように」という、大愛、大調和、大平和の心のひびきということになりますね。「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の五井先生の教えを素直に実践することによって、深遠な言葉の理解ができるようになるということです。
 文章の中に「無為」という言葉が出てきます。老子さんの世界はくうの空の又その奥の空のというような、大生命の根源からこの世に働きかけていた「神人」そのものと、五井先生は仰しゃっていますね。「空」という境地は神我一体の世界ですから、その境地を限りなく超えた大生命の根源にあるのが老子であるというんですね。もちろん、五井先生も同じであるわけですが、その実体は計り知れないというのが正直なところです。大生命がそのまま躍動しているのが老子なのだという五井先生の話を聞きますと、この書物にお出会いしたことが奇跡としか言いようがありませんね。今後はひれ伏して老子講義に接していきたいものです。
 そして、〝神霊の界で定まったことが、瞬時にして、肉体身を通して行われてゆくのであります。これを無為にして為すというのです〟と書かれています。この無為ということですが、肉体身の働きを見ていると、実は自然の活動として動いていますよね。五臓六腑ごぞうろっぷを始め血管や神経など全てがそうなっているのは、科学的に明らかです。心というのも本来は肉体の諸器官と等しく動くはずなんですが、大半の人々はそうは思っていないんですね。五井先生の凄さというのは、心の働きも、神のみ心のまま動く境地に入ることができると断言なさっていることですね。この底知れない大愛、大能力は、言葉で表現できるものではありません。私達祈りのメンバーは、そのことを直観的に確信して祈り一念の道を歩んでいるわけですから、ほんとに素晴らしいなと思いますね。
 肉体頭脳の小智才覚では、相対世界の苦の世界を抜け出ることができないと、老子さんを始め古来の聖賢は仰しゃっています。苦の世界とは、生老病死などを本物と思い込んでいる迷いの想念の世界、小智才覚の世界ということになります。消えてゆく姿の教えを実践する我々は、真面目にさえやっていれば、知らずうちに、だんだんと苦の世界を超えきっていくわけですから、大したものなんですね。やがては、肉体智を超えた神霊の智慧のまま動けるようになりますから、気を楽にしてやっていけばいいんです。
 この章の後半で、〝人間の運命を複雑にしたり、乱したりするものは、人間各自の想念おもいに他なりません。不幸も悲哀も怒りも妬みも、それはすべて人間の想いの波動がそうした感情をひき起すのであって、人間自体に不幸や悲哀があるのではないのです〟と書かれています。そしてこの後に、〝熟睡している時には何の不幸感や悲哀感もない〟という事実。〝睡っている時は、その人の想念は、その人の肉体を離れているので、その人に何等の感情も起らない〟と書かれています。正しくその通りですよね。寝ている時は幽体が高き世界に導かれて浄められている状態ですから、想いが何かを掴むということはありえないわけです。ということは、想念さえ、悲哀や不幸の中にいなければいいわけですね。そこで把われそうになる全ての想いの波を無限大光明の中へ入れ、消し去っていただくんですね。
 ここで五井先生は、〝肉体は人間の心のひびきの一つの現れに過ぎない〟と言われ、〝人間の本来の姿は大生命(神)の中で生きている光明心(本心)そのものであり、想念に把われさえしなければ、自由自在に己れの欲する通りの世界を自己の周囲に現すことのできる存在者なのである〟と、最も重要なることを仰しゃっているんです。光明心即ち、世界平和の祈りのひびきですね。これこそが真の自分なんです。自己は肉体ではなく、幽体波動でもありません。神霊波動、光明波動こそが本当のわれ・私なんですね。大生命の中で生きている光明心こそが永遠の生命ということになります。
 〝自己の全想念を、神の大愛のみ心の中に投入し切ってゆく日常生活をしてゆきますと、空の境地に近い心境になり、やがて空の境界に住めるようになり、無為に為す式の素晴しい生活がその人の前にくりひろげられてゆく〟と、文章を締めくくっておられます。最後の言葉、〝世界平和の祈りの日常生活からは、みながすべて、老子の無為の境地にまで、いつの間にか高まってゆくであろうことを、私は信じているのであります〟。信じて下さっているということは、何とありがたいことでしょう。
(風韻誌2020年9月号)