『老子講義』に寄せて  尾崎元海

 第四講 天地は不仁なり……
 言うまでもなく、老子講義は聖人に対しての老子さんの聖言ですが、この講義に書かれていることを素直に信じて実践していけば、聖人に近い行いができるようになるというんですね。この講では、天地と同じように、自然のままに動くという聖人の姿を説明されています。不仁ふじんということですが、これは情愛の想いが無いくうという境地のことを指しています。天地万物というのは、宇宙法則という大智恵・大能力によって動いているわけです。そういう宇宙の法則を乱してしまえば、万物の存在をあやうくしてしまいます。そこで天地そのものには、宇宙神の心から離れた勝手な情愛などない方がよいと書かれています。
 これは当然のことですよね。天地に自我の想いがあって、好き勝手に動いてしまえば、これは大変なことになってしまいます。全ては自然の法則によって行われていくんですね。この自然法則というのは、人類にも当然当てはまってくるわけです。憎めば憎まれる、叩けば叩かれるというように、みずからの発する想念波動が、他の同様の波動と交流して、自らに同じような事柄が返ってくるということですね。これは、自分の運命は全て自分でつくり出すという厳然たる事実があるんですね。
 ですから、どのようなことが起きても、他の人の所為せいではなく、あくまで自己自身の責任であり、蒔いた種が結果として現れたということで、実に厳しいわけですね。そういう事実を思いますと、自己の運命を直すためには、自己の想念波動を宇宙法則の軌道に乗せるということになります。世界平和の祈りの大光明の中に、全ての想いを投げ入れてしまうわけですね。ところが、聖人は自らの想念を空にして、無為の生き方の中で、自然法爾じねんほうに的に人々と接するというんですね。平和の祈りをする私達としては、全ての想いを消えてゆく姿にして、祈り心に成りきっていくということになります。この生き方こそが、凡夫が聖人の生き方に近づく最もやさしい行法なんですね。
 それを思いますと、「世界平和の祈り」を日々祈ることができるというのは、世界で最高の幸せ者と言わざるを得ません。無限の力をもつ天地は、出せばいくらでもその力が出るわけですが、そうはせずに、その場、その時々に即応した力を出していくこと、即ち中庸ちゅうようの道を歩みなさい、と説かれているんです。自我を没却して、自然法爾に生きていけば、右にも左にも片寄らない、あらゆる業想念を超越した把われのない心で、中を守って生きられるということですね。
 〝自己の全想念を神のみ心に投げ入れてしまった自己は、業想念波の自己ではなく、神のみ心から生活を頂いた自己になってしまっている〟と五井先生は仰しゃっています。〝瞬時といえど祈り心に生きている人は、老子のように、祈りという行為さえも超越した神人とまではいかないが、意外な程容易に、聖人の行っている行為に近い行いができるようになっていく〟という言葉には、ありがたいとしか言いようがありませんよね。世界平和ということは、これは大調和そのものである宇宙神のみ心と一つのひびきを持っているものなんですね。
 この講を改めて読んでいくにつれ、老子さんの高い深い教えを、私達凡夫が近づけるようにという、五井先生の大愛には只々合掌するばかりですね。世界平和を祈る道は、神性を限りなく現していく道です。この世にどのような変化があっても、全てを過去世の業想念波動の消えてゆく姿として、断固、全否定して、世界平和の祈りの中に入り続けていくことですよね。
 今回の文の中で、しっかり捉えておく箇所があります。神のみ心に全想念をお返しするというのは、神さまから新しい生活を頂いたことになる、というところです。無限大光明に全託したわけですから、これは当然のことなんですが、問題はその後から出てくる業想念波動です。そこで、瞬時といえど、祈り心の中へ入ることを習慣づける工夫が必要になります。そのためには、祈りのメンバーの皆さんと助けあっていくことです。それと、風韻誌をていねいに読まれることと、五井先生のご著書を読まれることをぜひ実行して下さい。
(風韻誌2021年1月号)