主の祈りと世界平和の祈り 尾崎晃久

2.愛と赦し―人間はみな神の子

 次に、私達に負債おいめある者(罪を犯す者)を私達が赦したように、私達の負債(罪)をも赦して下さい、と神様に赦しを願う祈りになります。
 五井先生は、「この祈り言をみますと、イエスは過去世ということも輪廻りんねということも、はっきり知っていたことがよくわかります。ここにある負債おいめというのは、今日的なものをいうのではなく、過去世からの因縁因果による負債おいめなのです」と説明しておられます。
 クリスチャンの中には、過去世からの因縁因果という仏教的な物の見方をかたくなに否定している人も多いですが、イエスも、そういうことを認識して、教えを説いていたわけです。
 誰かが、自分の不為ふためになるようなことをしてくると腹が立ちます。今の時点だけ見ると、自分には何の非もなくて、相手に一方的に非があるということもあるかもしれません。
 でも、過去世ということを考えると、自分も人を傷つけるようなことをしたのかもしれません。そこで、相手の行為を消えてゆく姿と見て、「お互いの過去世の因縁がこういう形で浄められていくんだ。どうか、この人の業が消え去り、本心の姿が現れますように。私達の天命が完うされますように」と祈れば、相手を赦したことになります。
 人から嫌なことをされて、そこで、相手をまた憎んで、仕返しでもしようとすれば、業の輪廻になってお互いに争い傷つけ合う世界が、いつまでも展開されることになります。自分が先に消えてゆく姿と思って、相手を赦すことによって、過去世から散々やり合った因縁因果の業の世界から抜け出して、救われていくことになります。
 『聖書講義』では、五井先生は原文に即して解説されていますが、別のご法話では「あの訳はあまり上等ではありませんね。自分が人の悪いことを赦したように、自分の悪いことを赦して下さい、と言うのは逆だと思いますね」とも仰しゃっていました。日本のカトリック教会でも最近では「私達の罪をお赦し下さい。私達も人を赦します」と順序を逆にして祈っているようです。確かに「神様が私達を赦して下さったように、私達も人を赦せますように」と神様の愛を最初に持ってきて感謝した方が自然な気もします。

 「人間と真実の生き方」には、自分を赦し人を赦しとあります。これまでの宗教は、人を赦すことは強調しましたが、自分を赦すという言い方はあまりしませんでした。聖書を心の糧にして、憎しみを乗り越えて、人を赦す生き方をした立派なクリスチャンの存在は世に光を与えてきました。しかし、聖書の言葉に感激しながらも、いざ、自分が酷いことをされると、相手に対する怒りや憎しみが湧き上がってきて、その想いを自分ではどうすることもできないで苦しんだ人もいたかと思います。真面目な信仰者は、「私は人を赦せないで責め裁いてしまう。恨んでしまう。私は聖書の言葉通り実行できない。私は悪い人間だ」と思って、今度は自分を責めてしまうことがあります。
 そこで、五井先生は、その人を憎む想いも消えてゆく姿なんですよと、私達を赦して下さったわけです。それは、潜在意識に溜まっていた過去世からの想いの波が、今、光に照らされて、消えてゆく姿として現れているんだから、構わず平和の祈りの中に入れてしまいなさい、と説いて下さっています。消えてゆくにしたがって、本心の神の子の姿がますます輝きわたってくるというのですから、これは心が非常に楽になります。
 相手の悪い行為も、自分の悪い想いも、共に消えてゆく姿と見て、平和の祈りの中で神様に浄めて頂いたらいいわけです。消えてゆく姿で平和の祈りによって、自分を赦し人を赦しということが容易になってくるわけです。

 最後は、「我らを嘗試こころみ(誘惑)にあわせず、悪より救ひ出し給へ」という祈りになります。
 「肉体人間は煩悩具足ぼんのうぐそくの存在であります。少し心をゆるめると、すぐにも煩悩のとりこになってしまいます。そういう試みに会わせず、私を悪から救って下さい、という願いは、実に切実なる願いです。心の正しい人ほど、そういう願いが切実であるのです。
 ただ、心の正しい人、清らかな人が、あまりにも、自分の心をほじくりかえして、自己の中の煩悩を探し出すことは、かえって、自分の生命のいきいきしたところを、阻害する危険もあるのですから、やはり私流にすべての想念行為は過去世の因縁の消えてゆく姿、というように割り切って、世界平和の祈り(主の祈り)の中に、自己の想念を入れきってゆくことのほうが、神のみ心に叶うと思うのです」と解説されています。
 クリスチャンの中には、人間は罪の子であるという意識が強いので、ちょっとでも、神様のみ心に反する想いが起こったり、間違った行いをしてしまったりすると、私は罪深い人間だと自分をいじめてしまう人もいます。
 善い人であっても、完全な覚者でない以上は、時には、人を憎んだり、妬んだり、汚いことを思うこともあるでしょう。感情的になって、人を傷つけることもあるかもしれません。自分の中の煩悩の想いを探し出して、私の心にはこんな悪があるといって、良心の呵責かしゃくにさいなまれ、自分を責めていたのでは、心が暗くなってしまいます。
 そこは、さっぱりと過去世の因縁の消えてゆく姿と割り切って、平和の祈りの中に想いを入れて、これで消えていって、ますます内なる生命の光が輝いてくるんだな、ありがとうございます、とやったほうが、はるかに明るい生き方になります。
 現在のキリスト教では、イエスだけが神の一人子で、後は罪の子だという観念があり、その一方、神様を信じるもの全てを神の子と呼ぶこともあって、あいまいなところがあります。
 「人間はあくまで神の子であります。しかし、この世的には凡夫であります」と五井先生は仰しゃっています。光り輝いた神の分霊わけみたまが、肉体をまとってから業が生じたわけで、この肉体にまつわる業想念の方を、キリスト教では罪の子といい、仏教では罪悪深重の凡夫と呼ぶわけです。現在の地球世界は、業想念に妨げられて、神の子の真の姿が十分現れていません。
 そこで五井先生は「世界人類が平和でありますように、という祈りをしていますと、自己の汚れた凡夫の想い、罪の子の想いは、神のみ心の中に昇華していって、そこで消滅せられ、神の子の本心だけが、再び肉体の自己として還えってくることになるのです」と真の祈りの重要性を説かれています。
 以前、お聞きしたご法話で、クリスチャンが教会で、ああ、罪深い私達を赦し給へというような、とても暗い気持ちで祈っていることがあるという話がありました。罪深い罪深いと言って、罪深い自分をいつまでも後生大事に掴んで離さなかったら、いつまで経っても消えていきません。罪深い自分も消えてゆく姿にして、神様にお返しして浄めてもらわないといけないわけです。罪深いのは消えてゆく姿であって、人間はみな光り輝いた神の子(キリスト)であるという根本を、私達は忘れてはいけないと思います。
 五井先生は、主の祈りの現代版が世界平和の祈りと言っておられます。主の祈りだと、解説されないと意味が分からないところがありますが、「世界人類が平和でありますように」だと誰でもすぐ分かります。短くて分かり易いと、気軽にいつでも繰り返し唱えることができて、本当に世界が平和でなきゃいけないと、心の奥に深く染み込んできます。
 主の祈りはキリスト教の祈りですが、「世界人類が平和でありますように」は全ての宗教者の悲願ですから、どの宗教の人でも抵抗なく祈れます。
 世界平和の祈りを祈ると、イエスも含めたあらゆる宗教の聖者が総結集した救世の大光明が輝きわたって、地球界に光が振りまかれると同時に、自分の内なる神性が開かれていくことになります。心ある人に、この祈りを祈って頂きたいと願ってやみません。
(風韻誌2016年5月号)