主の祈りと世界平和の祈り 尾崎晃久

 この故に汝らはかく祈れ。「天にいます我らの父よ、願はくば御名みなあがめられんことを。御国みくにたらんことを。御意みこころの天のごとく、地にも行なはれんことを。我らの日用のかてを今日もあたへ給へ。我らに負債おいめある者を我らのゆるしたる如く、我らの負債おいめをもゆるし給へ。我らを嘗試こころみあわせず、悪より救ひ出し給へ」 (マタイ伝第六章九節~十三節)

1.大調和世界顕現の祈り

 聖書の中でイエスは「主の祈り」という祈りを弟子たちに教えています。五井先生は『聖書講義』の中で「私も若い頃毎日この祈りをつづけたものでした。実に素晴しいひびきをもった祈りごとです」と書いておられます。そして、「〝世界人類が平和でありますように〟の一行は、この主の祈りを、最も今日的にわかりやすく、老人にも幼児にも唱えられるように説いたものです」とも述べておられます。

 最初にイエスは「天にいます我らの父よ」と、神様のことを私達全てのお父さんと呼びかけています。天の父とは、創造主である宇宙大神様のことを指しています。私達は、大神様の大生命より分けられた神の分け命で、神の子であります。信仰者の中には、神様と人間は全然別個の離れた存在で、神様は神様、人間は人間と、神の外に自分というものがあると考えている人もいますが、そうではなく、神様と人間は本来一つのものです。
 イエスは、自分自身が天の父と完全に一体となり、本心の姿をそのまま現されていたわけですが、世の多くの人達は、神様から離れた自分勝手な想いで生きています。ですから、大神様のみ心を受けて、守護霊・守護神という人類救済の神様が、私達一人ひとりについて、四六時中守って、神性顕現の方向へ導いて下さっているわけです。
 キリスト教は一神教と言われますが、神様というのは一即多神で、一なる大神様が多種多様な神々の働きに分かれて、森羅万象しんらばんしょうを創造し、この宇宙を運行され、また人類を救おうとされているわけです。聖書にもイエスが、守護の神霊であるガブリエルやミカエルといった天使や、モーゼやエリヤといったユダヤ教の過去の聖者方と霊的に交流していたことが記されています。

 「この天の父の名がすべての人に崇められ、神がおわさねばこの世界の存在はないのだ、というように、誰も彼もが、神によって生かされている実感を味わう時代の到来を、イエスが心の底から生命がけで望んでおられたであろうことが、この祈り言によって痛切に感じられます」と五井先生は書いておられます。
 私達は毎日、空気を吸って、水を飲んで、太陽の光を浴びて、この肉体を維持することができています。水も空気も日光も神様によって生み出されたものです。私達は、どれほど神様の恩恵を受けているか、いくら感謝しても感謝しきれないほどのものです。
 ところが現実には、神様を崇めないで、その存在を否定して生きている人も少なくありません。よく、「私は神様になんか頼らなくたって生きていける。俺は俺の力で生きているんだ。俺には神様の助けなんかいらない」と言う人がいます。では、夜眠って、自分の意識がない時、自分の心臓を自分の意志の力で動かしているのでしょうか。そうではなく、神様の生命の力によって動いているわけです。私は神様なんて信じないという人も、神様の力がなければ、一分一秒たりとも、この世で生存することはできません。
 そういう人たちを見ますと、イエスの言葉のように、どうか、全ての人が、神様を崇める日が一日も早く来ますように、と祈らずにはいられません。

 続けて、「御国の来らんことを。御意みこころの天のごとく、地にも行はれんことを」と、地上天国の実現を祈る祈りになります。
 五井先生は、「神の御国である実在の世界、神界ではこの地上界のように、恨みや妬みや争いもなく、恐怖も怠惰も、病気も貧乏も、不完全と名のつく状態は全くないのであります。旧約イザヤ書にあるように、獅子と羊とが仲良く遊び、四季の花の咲き競い、気候も温度も全く調和した状態の中に、神々や神の子たちは生命いきいきと生きているのです」と説明しておられます。
神の御国、神界の大調和した姿が地上に映し出されますように。神のみ心が、天の状態のようにこの地上界に行われてゆきますように。今日的な言葉で分かり易く言うと、「世界人類が平和でありますように」ということになります。
 私達が、「世界平和の祈り」を祈って、地上界のごう想念を浄めていけば、やがて戦争も、極端な貧富の格差も、立場の強い者が弱い者をしいたげることもなくなるに違いありません。人間が神の子として、それぞれの天命をよく自覚し、お互いに尊重し合い、助け合って、神の生命のままに生きるようになります。
 現在、いくら医学が発達して、これまで治せなかった難病を治せるようになっても、昔にはなかったような病気が新たに出てきます。病気というのも、人類の神様のみ心から離れた想念波動の消えてゆく姿ですから、みんなが真理に目覚めて、神の子の姿を現した時に完全になくなります。
 自我欲望、恐怖、憎悪といったカルマの波が一掃されて、人類が天のみ心をそのまま現すと、自然災害もなくなります。天変地変は、人間の業波動の浄めとして、地球界の波動調整として起こっているわけですから、人類が平和になりさえすえば、業を浄める必要がなくなり、台風も大雨も地震も無くなり、自然界も調和して参ります。

 「我らの日用のかてを今日もあたへ給へ」の糧は、英訳ではパンとなっており、食料のことですが、日常生きていくのに必要な物と受け取ることもできます。この所は、平和の祈りの「私達の天命をまっとうさせ給え」の中に含まれる、と五井先生は仰しゃっておられます。
 神様は、私達がこの地上において天命を完うするために必要なものは自然に与えて下さいます。「守護霊様、守護神様ありがとうございます。私達の天命が完うされますように」と日々祈り、置かれた場で人事を尽くしていれば、食べることも含めて、日常生活において上手うまい事やっていけるように、計らって下さいます。
 イエスは「汝らの父は求めぬ前に、汝らの必要なる物を知り給ふ」と語っています。神様は、人間に一々、これが欲しいと言われなくても、最初から、その人に必要なものをご存知です。
 宗教団体の中には、神様に自分の欲しいものを強く願いなさい、そうすればその祈りに応えて、神様が与えて下さる、一千万円欲しいなら、一千万与えて下さいと祈りなさいと教えているところもありますが、それは祈りではなく、肉体人間の想いの力を強めることによって、欲しいものを得ようとする念力です。
 神様は、本当に、その人の天命完うに必要なものであれば、必ず与えますし、必要でなければ与えません。本人がいくら欲しがっても、神様の方から見たら、今、そんなものはいらない、与えてしまったら、かえって不幸になってしまう、ということもあるわけです。だから、一々、人間の方で細かく、神様これを与えて下さい、こうして下さい、と事細かくお願いする必要はないと思います。全てを神様のみ心にお任せして、「私達の天命が完うされますように」と一番根本のことを祈っていけばいいことになります。