五井先生のご法話を聞いて 尾崎晃久

 親に感謝できない場合
 (九月七日の高殿法話会で、五井先生のお話のテープを聞きました。それを受けて話した内容です。)
 ご法話の中で、親に感謝できない因縁を持っている人がいる、という話がありました。宗教だけでなく、修養や道徳でも、親に感謝しなさいといいます。私たちがこの世で生活できているのは、第一に、両親が自分をこの世に生んでくれたからです。お父さんとお母さんがいなければ、自分はこの世にはいません。霊的に見れば、守護神様が生んでくれたわけですが、肉体的な観点から見れば、両親が自分を生み、育ててくれたわけで、その恩に対して感謝するのは当然なことです。
 ところが、親に感謝できない因縁を持っている人もいるわけです。過去世を考えないで、今生のことだけ見ても、これまでのいきさつで、親に対して不平不満や悪い感情を持つことがあります。魂の親である守護霊様、守護神様は、完全なる愛で子供である私たちを守り導いて下さっていますが、肉体の親の方は完全ではありませんので、悪い所もありますし、子供に対して間違った対応をすることもあります。
 「小説『阿難』を読む」の小冊子で書きましたが、お釈迦様の教団の支援者だったビンビサラ大王は、慈愛の深い人で、息子であるアジャセ太子を深く愛していたにもかかわらず、アジャセは父親に対して感謝するどころか、憎しみを抱くようになりました。
 今生では、特に両親の育て方が悪かったようにも思えないのに、何故そんなことになったかと言うと、アジャセが前生において、ビンビサラ王の執着心が原因で、殺されてしまったことがあって、その時の恨みの想いが、潜在意識に残っていたからだということでした。
 そのように過去世から今日に至るまで、色々ありますと、親に対して素直に感謝できない業が、自分の中にいっぱい溜まっているわけです。
 修養団体などでは、親を悪く思わないで感謝しろと、頭ごなしに説教をすることがありますが、無理に感謝しなければいけないと思うと、余計に苦しくなってしまいます。そういう場合は、無理に感謝しようとしなくていいから、その感謝できない業の想いを、消えてゆく姿と思って、平和の祈りを祈ってゆけばいいのですね。
 そうすれば、感謝できない業の波、親子の間にある因縁が、平和の祈りの大光明によって、どんどん浄められていきますので、時期がくれば、五年後、十年後か、親が亡くなってからかはわかりませんが、自然に感謝できるようになります。
 本当は、人間がこの世に生まれてくるということは、その人の魂がそれだけ進化することになりますので、自分をこの世に生んでくれた、という一点だけでも、有難いことです。それ以外の、親との間に生じた色んな対立関係等は、お互いの過去世からの因縁の消えてゆく姿であって、親の悪い所も、自分の中から出てくる親を悪く思う想いも、みんな消えてゆく姿です。ですから、どんな想いが出ても、かまわず消えてゆく姿と思って、平和の祈りを祈って、人類に尽くす生き方を積極的にしていればいいわけです。
 自然に、ある時期になれば、わだかまりが消え、親が自分にしてくれた良い面だけを素直に認めて、感謝できるようになります。親のことで、困らされたようなことがあっても、そういう問題を通して自分自身の魂も鍛えられて、立派になっていくことができたんだなぁ、親は私の業を消してくれた菩薩様だったなぁ、と感謝できるようになります。

 まず祈りの中に入る
 ある宗教では、可笑おかしくもないのに、皆で集まって笑ったり、ちっとも有難くもないのに、有難いんでございますと言ったりしていた、という話がありました。自然でない、わざとらしいのは、人にかえって不快な印象を与えてしまいます。
 悪いものは悪いし、嫌なものは嫌だし、感謝できないことは感謝できない。味噌もクソも一緒にするな、と五井先生はよく仰しゃっていました。味噌もクソも一緒にするとは、善いものも悪いものも、全て同じ扱いにして、善悪の区別をしないで、何もかも一緒くたにすることを言います。
 しかし、味噌は香りも良くておいしい食べ物で、クソは臭くて汚いものなんだから、一緒にすることなどできません。クソを味噌と思うことはできません。それと同じように、有難くないことを無理やり有難く思えと言われても、それは無理です。
 病気になれば、体が痛いんだし、気分も悪くなるし、苦しいです。だから、病気そのものを有難いとは思えないですね。誰だって病気になんかなりたくない。病気の苦しみというのは嫌です。だけども、病気という形で、過去世からの業が消えていって、内なる神様の健やかな生命が生き生きと現れてくるのは、有難いです。不幸災難に遭うのは誰しも嫌だけれども、そういう形で、業が小さい形で消えていって、消えていくに従って、これからの運命が良くなってゆくのは有難いです。
 クソは臭くて汚いのだけれども、トイレで水を流してしまえば、汚物は流れていって、後はきれいになるのと同じで、不幸災難も、それ自体は辛くて嫌なんだけれども、消えてゆく姿と思って、平和の祈りの大光明の中に流してしまえば、みんなきれいに浄められてしまって、後は良いものが現れてくる、自分の運命がより輝いてくる、本心がより大きく現れてくることになるわけです。悪いもの、汚れたものが消え去って、洗い流されて、後から良いもの、輝いたものが現れてくる。それが有難いわけですね。
 昔、あるおばあさんが、五井先生のところに相談に来て、「家で嫁にいじめられまして、でも有難いんでございます」と言うわけです。五井先生が、そのおばあさんの心の中をご覧になると、少しも有難いとは思ってない。色んな憤懣ふんまんの想いを中に溜めている。一体何が有難いのと聞くと、「いえ、なんだかわかりませんが、〇〇教では、有難いと言っていれば有難くなると教わりましたので、有難いです」と答える。
 五井先生が、本当に有難いの?と重ねて聞くと白状して、「いえ、実はちっとも有難くなんかないんです。私は、嫁が憎くて憎くてしょうがないです」と泣きついてくるんです。嫁が憎い、いじめられて辛い、という想いが自分の中にいっぱいあるのに、それをいい加減にごまかして、表面だけ感謝しているような振りをしても、駄目です。
 他人からいじめられるのが嬉しいわけがない。嫌に決まっています。憎らしいなら憎らしいでいいんですね。自分の中に、嫁が憎らしいという想いがあるなと正直に認めないとだめです。その想いを消えてゆく姿と思って、平和の祈りの中に入れて、祈ってゆくんですね。
 そうすると、救世の大光明によって、自分の中の憎しみの想いも、嫁が持っている業も、お互いの因縁も大きく浄められて、本当に良くなっていくんですね。
 良くなるとは、自分の中にあるもやもやした想いが浄められて、嫁に何を言われても気にならない心境になって、もっと明るい力強い人間になったり、嫁の態度が変わって、もっとより良い関係になったり、とにかく一番良い形に神様がして下さるわけです。
 平和の祈りを祈って、想いが浄められてくると、心からの感謝が自然に湧いてくるようになります。ちっとも有難いと思ってないのに、有難いんでございます、と言っているような、うわべだけの感謝ではなくなるわけですね。
 本当は過去世の因縁が百パーセントそのまま現れてくれば、もっと大きな苦しみを味わわなければいけなかったところを、守護の神霊の御加護で小さい形で済ませることができた、有難うございます、と心から思えるようになります。
 民藝運動の指導者で、妙好人や念仏の研究をされた、柳宗悦さんという人がいました。柳さんは、妙好人の受け取り方のすばらしさ―彼らが、どのような不幸災難が現れても、ひどい目に遭わされても、嘆いたり怒ったりせず、全て阿弥陀様への深い感謝と歓喜の心で受け取ることに、感銘を受けておられました。
 人から蹴られても、少しも腹を立てないで、ああ、これで、前世からの悪業を、いくらかでも償うことができて、真に有難い。誤って川に落ちて、血だらけになっても、片腕が折れても仕方がないのに、これだけで済んで有難いと、五井先生の言葉で言えば、全て過去世の業の消えてゆく姿で、本心開発のためのものであると受け取って、阿弥陀様への感謝に妙好人は徹しきっていたわけですね。
 それが、晩年、柳さん自身が重い病気になって、半身まひとなり、めまいや便秘、味覚や嗅覚の喪失に苦しみ、また奥さんとも言い争ったりして、中々妙好人の境地になれず、苦闘するさまを、日記で書き綴っておられたようです。なんとかして所縁を全て仏縁として受け取れるようになりたい、と言っておられたそうです。
 柳さんは、病床の中で、妙好人のように、全てを感謝の心で受け取ることが中々できない自分を、正直に見ておられ、なんとかそうなりたいと思われていた。それは、有難くないのに有難いと言って、自分の心をごまかしている態度より、ずっと立派だと思います。
 妙好人も、最初から、どんな不幸が現れても嘆いたり不平不満を言わないで、何をされても怒ったりしないで、全てを感謝で受け止めるような心境だったわけではないと思います。そこに至るまでに、やっぱり段階を踏んでいかれたと思うんですね。
 ひたすらなる南無阿弥陀仏の称名しょうみょうによって、弥陀の光明の中に深く溶け込んでいくうちに、ざいあくじんじゅうの凡夫の波が浄まって、次第に人格も立派になっていって、高い心境に導かれていったと思うんですね。
 妙好人の浅原才市さんに、こういう言葉があります。
 「才市よい、うれしいか、ありがたいか。」「ありがたいときや、ありがたい、なつともないときや、なつともない。」「才市、なつともないときや、どぎあすりや。」「どがあも、しよをがないよ。なむあみだぶと、どんぐり、へんぐりしているよ、今日も来る日も、やーい、やーい。」(『妙好人』鈴木大拙著 法蔵館)
 才市よ、嬉しいか、有難いか、という親様の問いかけに対して、有難い時は有難い。なんともない時はなんともないと真に正直に答え、なんともない時はどうする。どうもしようがない。南無阿弥陀仏と唱えて毎日生活しているよ。このように妙好人というのは、有難い時もそうでない時も、阿弥陀様の中に入りきって生活していたわけです。
 先程のご法話で、ある講師の先生が、構わず世界人類が平和でありますように、と祈りの中に入ってしまえば、感謝できないものもいつか感謝できるようになる、とお話になられていたようですが、まず平和の祈りの中、阿弥陀様の大光明の中に入らないと駄目なんです。
 不安なら不安の想いのまま、感謝できないならできない想いのまま、時に、家族と争ってしまう、争いの想いのままでいいから、阿弥陀様!五井先生!世界人類が平和でありますように!と言って、光の中に入るんです。それが他力信仰の極意だと思います。
 病気が嫌だ、辛いと感じるのは当たり前なんだから、その想いのまま、阿弥陀様の、五井先生の慈愛の懐の中に飛び込むんです。五井先生助けて!でもいいんです。
 そうしますと、神様の大光明の中で、病気の波も、現れてきた不幸災難も、苦しい想いも、浄められていき、「神様が私のことを深く愛してくれているから、こういう形で業を払い浄めて下さって、私を立派にさせようと思われているんだな、有難うございます」という感謝の心が、祈りの中から無理なく出てくるようになります。
 苦しければ、まず、五井先生を呼び、守護霊、守護神を呼び、光の中に入ることです。祈り続ける中で、感謝は自然と深まっていきます。感謝できない想いも消えてゆく姿と思って、五井先生の中に入り続けることです。

 非常識と超常識
 ご法話の中で、超常識という言葉を使っておられましたが、これは五井先生独自の言葉です。現在、常識とされていることが必ずしも正しいとは限りません。
 例えば、昔は、太陽が地球の周りを回っている天動説が人々の間で常識でした。それが現在では、天動説は間違っていて、地球が太陽の周りを回っている地動説が、科学的真理として常識になっています。常識というのは、時代と共に変化していくものです。
 人間は、肉体ではなく、永遠に生き続ける神の分霊わけみたまであるという五井先生が説いて下さっている真理が、今の大半の人の常識になっているかと言うと、そうではありません。人間は八十や九十年で死んで消滅してしまうものである、と多くの人が思っています。
 守護霊様、守護神様がいつも守って下さっているというのも、私たちにとっては常識ですが、世の大半の人にとっては常識ではありません。守護霊なんて聞くと、ばかばかしい、と一笑に付してしまう人もいます。
 そうすると、人間は本来、神の分霊であって、守護霊、守護神によって守られているものであるというのは、現在の常識を超えた、超常識といえます。
 また「祈りなんかで、世界が平和になるわけがないだろう。ただ祈っているだけでは、どうにもならない」ということを言う人もたくさんいます。
 祈りによる平和運動は、現在の常識を超えた、超常識の運動です。多くの人は信じないけれども、やがては、これが正しい真理として、全ての人に受け入れられる。今は一部の人しか信じていない超常識が、人類みんなが当然の常識として受け入れる時が来るわけです。これまでの、肉体人間中心の、常識的な生き方を続けているだけでは、世界は平和にならないのは、確かなことです。
 ただ宗教をやっている人は、超常識ではなく非常識なことをしてしまうことがあります。
 例えば、お葬式で、息子が亡くなって、悲しんでいる人のところに行って、全然同情しないで、この世は苦の娑婆しゃばで、あっちは天国ですから、早く亡くなって良かったですね、息子さんは幸せでしたねと言ったら、相手は怒ってしまいます。それは相手の心を傷つける、思いやりのない行為ですから、非常識なんです。
 その亡くなった人は、本当に良い世界に行って喜んでいるかもしれません。だけども、今の人類の大半の精神状態では、親としては、自分より先に子供が若くして亡くなったら、悲しいに決まっています。お祈りしている人でさえ、自分がそういうことを体験すれば、辛く感じてしまうものです。まして真理を知らない人ならなおさらです。
 その人の気持ちを思いやって、慰めの言葉をかけながら、頃合いを見計らって、実は、霊界というのがあってと、真理を少しずつ伝えていくのであれば、非常識にはなりません。
 あまり、気の毒にと思い過ぎるあまり、自分も一緒になって相手の苦しんでいる波の中に入り込んで、悲しみに沈んでいたのではいけませんので、自分は業の中に入らないで、光の中に入って、「亡くなった人も、平和の祈りによって浄められて、善い世界に行くことができて、この方も今はお辛いだろうけれども、この苦しみを乗り越えて、立派になっていかれるのだ」と信じて、祈りの光を送っていくわけですね。
 普通の人と調和して合わせながらも、普通の人の常識的な考え方より、自分が一歩抜け出ている、それで皆に光を与えていくのが、超常識の生き方になります。
(風韻誌2019年11月号)