五井先生ゆかりの地・市川を訪ねて  尾崎晃久

五井先生ゆかりの地・市川を訪ねて(前編)  尾崎晃久

 (この文章は、二〇一六年五月に、当時市川市霊園にあった五井先生のお墓参りをした際のものです。現在は、五井先生のお墓は富士の白光本部に移転しています。)

 五井先生のお墓参り
 今年は、五井先生ご生誕百周年になります。それに合わせたわけではありませんが、お誕生日(十一月二十二日)の半年前に当たる五月二十一日(土)に、千葉県市川市にある五井先生のお墓参りに、東京在住のメンバーの初岡みきえさんと行ってきました。
 五井先生のお墓は市川市霊園という所にあります。勿論、五井先生はお墓の中で眠っているわけではなく、平和の祈りを祈る私達一人ひとりを通して働いて下さっておられるわけですから、わざわざ、そんな遠くまでお墓参りに行きたいとは思っていませんでした。
 それが、最近になって、将来的に五井先生のお墓をよそに移すかもしれないという話を聞き、市川にある間に行ってみたい気持ちが湧いてきました。
 せっかく行くのなら、五井先生がご法話をされていた聖ヶ丘ひじりがおか道場跡(随分前に閉鎖され、今は住宅地となっていると聞いていましたが)や、先生縁の地を巡り歩いてみたいと思い、市川駅前のホテルに予約を入れ、一泊二日の旅をすることにしました。
 市川市は、江戸川を挟んで東京の隣になります。東京駅にお昼ごろに到着し、武蔵野線に乗り、最寄り駅の市川大野駅まで四十分弱で着きました。初岡さんと合流し、タクシーで霊園まで行きました。
 管理事務所で五井先生のお墓のある場所を聞きますと、霊園の一番奥の方でした。二十六万平方メートルもある広大な敷地ですので、歩くと時間がかかります。自転車を貸し出していたので、それに乗っていくことにしました。霊園内の道路を通って、自転車や車で隅々まで移動できるようになっています。桜や松、つつじなどの自然に囲まれた開放的な雰囲気で、自転車に乗っていると心地よく感じられました。
 道路に接したよく見える位置に、五井先生のお墓はありました。石碑に、五井昌久之墓と刻まれています。左右には、人の背丈ぐらいの松の木が植わっています。供えられていた花は新しかったので、市川在住の信徒の方が頻繁ひんぱんに来られているのでしょう。
 第一印象として、五井先生のお墓は、簡素でいながら、なんと、美しく心地よく清々すがすがしい気に満ちていることかと感動しました。お墓という感じがまるでしなかったのです。一つのモニュメント、平和記念碑であると感じました。平和の祈りを捧げる場所であり、天と地をつなぐ光の柱の立った聖地のように思えました。五井先生の光の空間の中に入ったという感じでありました。
 お墓の下には、生前の五井先生の肉体のぱく要素が埋葬されていますから、実際に肉体を持った五井先生に相見あいまみえているような、厳粛な気持ちになりました。

 左手には、世界平和の祈り言葉が刻まれた石碑があります。先生がお書きになられた書をそのまま刻んだものです。石碑の裏側には、五井先生ありがとうございますと、会員一同による感謝の言葉が刻まれていました。普段いつも口にしているこの一言が、何と胸を揺さぶってくることでしょう。寄りかかってくる人々を愛念で受け止め、苦悩から解き放ち、地球世界を滅亡の危機から救って下さった五井先生。先生に対する、大勢の人々の感謝の気持ちが伝わってきて、胸が一杯になりました。
 墓石の右側面には、昭和五十五年八月十七日帰神。裏面には、昭和五十七年五月吉日 五井美登里みどり建立。左側面には、平成二十三年四月三日 五井美登里 享年九十歳とあります。
 五井先生は、この世での第一の恩人はお母様で、第二の恩人が美登里奥様だと仰しゃっておられました。奥様は、五井先生が中央労働学園で勤務していた頃の同僚でしたが、五井先生が神我一体になる前から、先生をひたすらなる愛念で支え続けられました。
 『神と人間』のあとがきで、白光の初代理事長だった横関先生は、奥様のことを「日本女性の美徳の権化のようなお方」「先生の愛行を陰ながらお手伝いして、内助の功を無意識の中にたてておられ」と評されています。
 お話しされるのをテープで聞いたことがありますが、天真爛漫な、思いのほか可愛らしいお声に驚いたものです。お誕生祭といった特別な時だけみんなの前に出て来られましたが、それ以外は表舞台には立たれず、常に陰から、祈りによる平和運動の発展を支えてこられたと聞いています。九十年もの長い間、肉体に止まり、祈りの信徒に光を送り続けて下さっていたことに、改めて深い感謝の心が湧いてまいりました。

 初岡さんと墓前で、世界平和の祈りを捧げました。時間は一時半ごろでした。「五井先生、生命をお返しいたします」という想いが自然に湧いてきました。元々、自分の生命ではなく、人類の一番大本の神様である五井先生から頂いた生命です。それを、自分の生命だと思って、勝手な想いで生きてきましたから、改めて、想いも、生命も、全て五井先生にお返しする気持ちで、「み心のままに為さしめ給え。我が天命を完うせしめ給え」と祈りました。
 「これまで、五井先生のみ心に反する間違ったこともしてきました。どうぞお許し下さい。これからも誤ることもあるかもしれませんが、どうか私達を正しい道へお導き下さい」「みんな一生懸命、五井先生を信じて、お祈りされていますので、コスモス会のメンバー一人ひとりのことを、どうぞ、よろしくお願いします」また、国内外に様々な立場でお祈りされている人がいますから、「世界平和の祈りを祈る全ての人達の天命が完うされますように」と祈りました。
 初岡さんが、「私は、これまで五井先生のことを偉い方だとは思っていたけれども、今回初めて、五井先生のことを身近に感じました」と言われました。それを聞き、私も大変嬉しく感じました。
 後日、初岡さんから送られてきたメールの言葉を紹介しますと、「五井先生のお墓参りにご一緒させて頂きまして、ありがとうございました。日曜日は光の中にずっといたのを感じました。私は今回のお参りで本当に五井先生を近しく凄く身近に感じたのが大きな収穫でした。お祈りが変わると思います。今まであった薄いベールが溶けました。ありがとうございました」とのことでした。
 自転車で引き返す時、「一番奥にある五井先生のお墓を通して、霊園全体が五井先生のお光によって浄められているようだ」と初岡さんが言っておられました。実際、お墓特有の陰気な波を感じさせず、各家の先祖代々のみたま様がみんな救い上げられ、みたままつりと同じようなことが行われているのではないかと思えました。

 聖ヶ丘道場跡
 その後、聖ヶ丘道場跡に向かいました。武蔵野線で東松戸駅まで行き、北総線に乗り換え北国分きたこくぶん駅に着きました。聖ヶ丘跡までは徒歩十分程です。北総線は新しい線で、昔は、南の総武線の市川駅からバスで行きましたから、若干時間がかかったものと思います。
 聖ヶ丘の東向かいに、堀之内ほりのうち貝塚という縄文後期・晩期の遺跡があります。市川は全国有数の貝塚(縄文人が食べて捨てた貝殻が積み重なったもの)の密集地帯です。面白そうなので立ち寄ってみることにしました。遺跡一帯は、貝塚公園として整備され林になっており、下を見るとはまぐりやシジミなどの貝殻の破片があちこちに散らばっていました。考古博物館があり、出土している土器や土偶も見ました。数年前には少し離れた遺跡で、七千五百年前の、日本最古の丸木舟も発見されたそうです。
 昔、市川に、宗左近そうさこんという、縄文美術を深く愛した有名な詩人がいました。氏は、「市とは神との交易の場所のこと。市川は歴史の向こうの縄文の都だったのではないだろうか」との考えから市川に移り住んだそうです。聖ヶ丘周辺は、古い時代から、神々と交流する祈りの場だったのかもしれません。
 五井先生の「神の子の自覚に生きし日本ひのもとの太古の民に還へる真祈まいのり」「神言かみごとのひゞきのまゝに生きて来し古人いにしゑびとに還へる真祈り」(詩集『いのり』収録)という歌を思い起こしました。かつて人類が神の生命の響きのままに生きていた時代があり、いつしか、自分が神よりきたる生命であることを忘れてしまったわけですが、平和の祈りの光明波動によって、肉体にまつわる業の想いが浄められ、もう一度、神代の古人の姿に還っていくわけです。
 先生が仰しゃっている太古の日本の民というのは、縄文より、もっと前のことのようにも思われますが、縄文土器からは、作為のない生命のままのおおらかな響きが伝わってきます。

 貝塚公園の林の中の道を通って、聖ヶ丘道場跡の住宅地の方に抜けていきました。昭和三十年代に、五井先生や信徒の方達が、草木が生い茂った坂道を上って、聖ヶ丘道場に向かう写真を思い出して、当時の雰囲気を味わった気持ちになりました。
 聖ヶ丘の地は、統一する場所を探し求めていた、講師の斎藤先生、村田先生、島田先生が昭和三十三年に見つけられました。戦時中は、演習所や兵舎がある軍用地だったそうです。北国分の隣が矢切やぎりという駅ですが、矢切は、戦国時代に北条氏と里見氏が戦った国府台こうのだい合戦かっせんという古戦場の跡で、一万人もの人が亡くなった場所です。
 聖ヶ丘を見つけたばかりの頃、有志のグループが、土地を購入する前から毎週、雨の日も風の日も座って統一を繰り返したそうですが、村田先生が統一すると、戦場で亡くなった武士たちがいろいろな姿で現れたそうです。まず、これらの地縛じばくの霊魂たちを浄め、救わねばならず、道場が建つまでに大変な苦労があったようです。

 聖ヶ丘道場があった場所までやってきました。最初の頃は、周囲に森や畑が広がり、ふくろうが鳴き、野うさぎきじが遊びにくるような人里離れた所だったそうですが、今は、自然林の一部が公園として残っているだけで、すっかり住宅地化しています。
 この辺りに正門があったのだなと思いながら、かつて道場の敷地だった中に入っていきました。前日に、自宅で『聖地・聖ヶ丘』というビデオを観ていたものですから、ありし日の情景に思いを馳せながら、現在の家が建ち並ぶ光景を眺めました。「世界人類が平和でありますように」のピースポールが立っている家もありました。
 ここで、五井先生が毎週、何千名もの人を前にして、統一指導とご法話を為されたのだ、道場の隣には昱修庵いくしゅうあん—先生が寝泊まりされ、地球世界の業を身に受けて浄めておられた家—があり、美しい庭があったのだと感慨深い気持ちになりました。若い頃、私の両親が通い、また自分の名前がつけられた場所でもあります。まさか、自分が聖ヶ丘の地に行くことになるとは思ってもみなかったので、感無量でありました。
 五井先生が長く肉の身を置かれた場所なのですから、大地の奥深くまで先生の響きが浸透しているに違いありません。現在、ここにお住まいの人達は実に幸せだと思いました。
 あちこちの庭先に、白や赤やピンクのバラが咲いていました。「人の行き来繁くなりきてこの街にばら咲かす家多くなりきぬ」「坂の道みな舗装路となりし街の朝の散歩にばらみて歩く」(歌集『夜半よわの祈り』収録)という先生のお歌の通りの光景でした。近くにある式場病院で、戦後間もなく、患者の心を和ませるためにバラ園が創られたのをきっかけに、市川ではバラが盛んに植えられるようになり、現在では市民の花になっています。
 今は何もない跡地を見て、形ある物はいつかなくなるものだと、寂しい気持ちになるかと思っていたのですが、永遠に消えることのない五井先生の響きを確かに感じました。

 昔の聖ヶ丘までの手書きの案内図を見ると、下矢切しもやぎりというバス停から道場に行くルートの途上で、大イチョウと記されています。講話集『私に荷物を預けなさい』で、五井先生はこのイチョウのことをお話しされています。
 「古い木、大木を黙ってるのはいけません。木にはせいがいます。聖ヶ丘道場へ来る途中に銀杏いちょうの大木(下矢切、愛宕神社前)が二本あるでしょう。夫婦めおと銀杏ですね。そこにきれいなひげをはやした老翁がいるんです。私が行きますと、いつもちゃんと迎えに出て、案内してくれていたのです。ところがこの間うち、あの枝をみんな伐っちゃった。そしたら老翁が出て来ないんですよ。いなくなっちゃった。そこで、私祈っていたら出て来ましたがね。銀杏はまた(木の勢いを)回復すると思います。」
 伐る場合は、イチョウさん、私の都合で伐らなければならなくなりました、どうか許して下さいと言って、平和の祈りをすれば、向こうもわかってくれるとのことです。
 実際に観に行ってみました。愛宕神社の参道入口に、二十五メートルのイチョウが至近距離で並んで、勢いよく青々と生い茂っていました。樹齢は三百五十年と推定。畏敬の念を感じさせる実に立派なものです。「失礼致します」とイチョウの木に声をかけてから、写真を撮らせて頂きました。向こうの方が、年齢が上ですから、年上の方に礼を失することがあってはなりません。
 離れた所にある社殿の方に最初立ち寄ったのですが、偶然、境内にも大きな二本の木があり、これが例のイチョウだと勘違いをしていました。これで今日の予定は終わったと思い、そのままバス停まで行こうとしたのですが、翁が「違う、こっちだよ」と案内して下さったのか、「あれ、ここにもあるじゃないか」と上手いこと気付くことができました。

 バスに乗り市川駅に着いたのは、六時前でした。五井先生が個人指導を行われていた新田しんでん道場は駅から十分程のところにありますが、翌日行くことにして、初岡さんと夕食を取った後、ホテルに入り、テープをかけて統一をしました。
 十分を三回、繰り返し統一し、A面の最後に入ると、五井先生の聖歌「平和讃」が流れてきました。
 「聖ヶ丘は天地あめつちの 光ゆきかう神の丘 祈りに建てる殿堂の 光明さんと世を照らす まことの人らつどいきて 世界平和をうちたてむ も日もつづく真祈まいのりに 神々ここに天降あまくだる」
 先生の慈愛溢れるお声に、ジーンとした気持ちになり、「私は、今聖ヶ丘に行ってきたのだ」と深い感動が湧いてきて、涙がにじんできました。
 聖ヶ丘の地には、かつてのような祈りの道場はありません。しかし、私は、五井先生を思いながら歩いていたので、私の意識は過去に引き戻され、私は確かに、五井先生がいらっしゃった頃の聖ヶ丘道場に行ってきたのだと思えました。聖歌を聞き終わり、五井先生のみ教えを伝えていかなければいけない、という使命感が強く湧き上がってきました。統一の中で、市川にかつておられ、すでに他界された祈りの諸先輩方が、光を送ってきて下さっているように思えました。翌日の日曜日、また五井先生縁の地を色々と巡りましたので、次号でお話しさせて頂きます。
(風韻誌2016年7月号)

夫婦銀杏(著者撮影)