五井先生ゆかりの地・市川を訪ねて  尾崎晃久

五井先生ゆかりの地・市川を訪ねて(後編)  尾崎晃久

 葛飾かつしか八幡宮はちまんぐう
 五月二十一日(土)、五井先生のお墓参りを終えた私は、市川駅前の、山崎製パンが経営する宿泊施設に泊まりました。山崎製パンは、市川で昭和二十三年に創業したそうです。五井先生が神我一体になられた後、東京から千葉の市川に移ってこられたのが翌二十四年のことですが、先生も山崎のジャムパンがお好きだったと聞きました。
 月日が流れ、駅周辺の風景もすっかり様変わりしましたが、昔の新田しんでん道場までの案内図に書かれている駅北口の山崎製パンの直売店は、今も、ヤマザキプラザ市川の大きなビルにリニューアルされて残っていました。五井先生の初期の講話集に、会場としてよく出てくる市川五丁目会館も駅前にあったようです。
 日曜日は、朝六時頃に起きて、三十分程統一しました。五井先生縁の地で、お祈りできることは深い喜びでした。ずっと統一したい気持ちになりましたが、滞在する時間に限りがありますので、そんなわけにもいきません。朝食を取ってから、電車で、JR市川駅の一つ隣の本八幡もとやはた駅まで移動し、葛飾八幡宮という神社に参拝しました。八幡やはたは、五井先生のご自宅があった場所です。
 ご著書『人類の未来』の「神秘的なことごと」という文章の中で、五井先生は、このようにお書きになられています。
 「二十年ほど前のことですが、私が市川市新田の松雲閣しょううんかく道場から離れ、八幡に新居を構えた時の話ですが、どこか市川近くに、安くて手頃の家はないかと探し歩いていましたが、ふと八幡の八幡様(葛飾八幡宮)の神社の前にさしかかりますと、神社の奥から、はっきりした八幡様のお声で『貴方の家は、八幡に取ってあるから、他をみる必要はない。八幡だけを探しなさい』と聞えたのです。私はその足ですぐ八幡近辺を探し、現在の家が見つかり、もう二十年も住みつづけておりまして、何一つ不足なく、家内など、広からず狭からず、静かなところでいて、買物にも便利だ、と、もう建ってから四十年近くもなる家ですが、毎日喜こんで住まわせていただいております。」
 五井先生のような方であれば、最初から霊覚で、どこに良い家があるか、すぐにわかりそうなものですが、ごくごく常識的に、人から情報を聞いたりして、仕事が終わった後に、ご自分で足を運ばれて見て回られていたようです。肉体側が人事を尽くす中で、神様が良きようになさって下さるのだということを、身をもって示しておられたわけです。
 駅から神社まで徒歩で五分程でした。東京の葛飾区から離れているのに、何故この社名なのか疑問でしたが、江戸時代以前は、千葉を含めた広範囲が葛飾郡だったようです。
 創建は九世紀です。やしろの隣に、千本公孫樹いちょうと呼ばれる樹齢千二百年にもなる巨樹がそびえていました。高さは二十三メートル。かつて落雷によって幹の上部が折れてしまい、その後、たくさんの枝幹が支え合うように伸びているところから、この名で呼ばれています。乳房の形に似たこぶを削って煎じて飲むと、乳の出がよくなるという言い伝えから、育児守護の信仰があると看板に書かれていました。数多くの幹が寄り集まって、一本の大樹のように伸びている様は、生命力がみなぎっており、見ているだけでパワーを頂けるようです。
 社から、「けまくもかしこ伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ……」と、祝詞のりとが聞こえてくる中、夢中になって、色んな角度から写真を撮っていました。ところで、この祝詞は、「私たちの罪汚れを払い浄めてください」と神々様にお願いする内容だそうです。肉体にまつわるごう想念を、すっかりきれいに浄め去って、本心の神様の生命のままに生きるのが、神道であり、世界平和の祈りの道だと思います。自分の肉体身にまつわる自我欲望の想いはそのままにして、商売繁盛やその場だけの勝手なご利益を願うのは、神社にまつられている高級神霊とは、全く波長が合うものではありません。
 八幡神社は日本で一番多い神社だとも聞きますが、八幡神にしても、真の世界平和のため、日本国の天命完うのために働いている人に種々と力をお貸し下さるのでしょう。これまで大勢の平和の祈りの信徒が参拝したと思いますが、八幡様も、大イチョウも、ずっと祈りによる平和運動の発展を見守ってきたのだなぁと、感慨深い気持ちになりました。

千本銀杏(著者撮影)

 新田道場跡
 市川駅に戻り、周辺を散策することにしました。私事で、ちょっともやもやした想いがあったので、余計に「五井先生ありがとうございます」と強く思って歩いていました。駅北口前の千葉街道を右に進み、途中の路地を入ったところに、五井先生がお浄めと個人相談を行っておられた新田道場跡があります。徒歩で十分程です。今はマンションが建っていますが、ここに毎日何百名もの人が、様々な悩みを抱え、救いを求めて訪ねてきました。初めて来た人がわかるように、「五井先生はここ」と書かれた表札があったそうです。
 聖ヶ丘ひじりがおかのように、一度に、大勢の人を収容できる広い敷地の道場ではありませんでした。元々、白光の初代理事長だった、横関よこぜき実先生のお家であり、松雲閣と呼ばれる料亭があったところでした。五井先生ご夫妻は、一時期、横関先生ご夫妻と共に、ここに住まわれました。『神と人間』が執筆された記念すべき場所でもあります。
 この辺りは、かつて市川砂州さすと呼ばれ(入り江が近くにあった)、防風林として植えられた黒松が、路地などあちこちにあり、おもむきのある景観を生み出しています。黒松は市川の市民の木だそうです。五井先生の柏手かしわでの音がよく聞こえていたという、道場跡隣の春日神社の境内にも、松の木々が空に向かって伸びていました。「枝繁き松の天なる空澄めり潮鳴りとうとうと我が胸にする」という先生のお歌を思い起こしました。

 昭和二十四年、三十二、三歳の頃、五井先生が市川にやって来られ、松雲閣や、市内の信徒の人の家で、お浄めやご講話をされるようになりました。
 翌二十五年の七月には、美登里みどり奥様が、松雲閣で夜の講話が始まる前に、身のまわり品だけを手に提げて嫁いでこられました。ところが、その時、五井先生ご夫妻が住む新居がまだ決まっていなかったそうです。市川の信徒の方達は、「どうか私の家へ」と要望されていたのですが、五井先生は、信者さんではお金を取ってくれないから、と断られていたようです。そうは言っても、奥様がやって来られても、新居が決まっていない状況に、皆気が気でなかったのですが、五井先生は神様に全託しきっておられますから、何の不安もありません。「ナーニ、神様は人間に必要なものはご存知ですから、ちゃんと用意していて下さいますよ」と、かえって心配する皆を労わり、平然としておられたそうです。
 驚くべきことに、講話後の個人相談の最後で、五井先生のお言葉は現実のものとなりました。その日の終わる直前、午後十一時半頃に、「お金が必要だから、家の二階を貸したいのだが、借りると約束した人が来ない。どうしましょうか」と相談を持ち掛けてきた人がいました。「それなら私が借りましょう。いくらですか。」二万円ぐらいで、五井先生には持ち合わせがありませんでしたが、奥様が、上手い具合に、ちょうど二万円持って来ておられました。皆、「こんな不思議な決まり方はあるのか」とさぞかし驚かれたことと思います。
 まさに「必要なものは必要な時に神が与え給うのである」という真理の言葉の実例を、五井先生は皆にお見せになられたわけです。

 文学の街・市川
 そうやって見つかった、五井先生ご夫妻の最初のお住まいは、市川真間外ままがいと呼ばれる場所にあったと聞いていました。その辺りに、行ってみようかと思ったのですが、真間と呼ばれる地域は広いので、正確な位置は知りませんでした。とりあえず、観光案内で紹介されている所を気ままに散策することにしました。
 新田道場跡の横の道をそのまま進んでいき、「文学の道」と呼ばれる桜並木道を通って、真間川に沿って歩いていきました。道には、北原白秋、幸田露伴、永井荷風、宗左近など、市川に住んでいた文学者の功績を称える紹介板が置かれていました。それを見ながら、五井先生も、市川の文学者として、ここに加えられてしかるべきだと思いました。
 五井先生は、お若い頃、文学を学ばれ、若山牧水の高弟の、菊池きくち知勇ちゆうという歌人が主宰する、短歌結社「ぬはり社」にも入り、腕を磨かれました。五井先生には、宗教者であると同時に、自分は歌人であるという意識がおありだったと思います。真っ向から宗教の真理を説いた道の歌とは別に、天地自然の深い調和を詠んだ詩や歌もたくさんありますので、宗教者としてではなく、歌人としても、もっと世間一般に広く知られてよいと思います。

 文学の道を進むと、奈良時代にこの真間の地にいた、手児奈てこなという伝説上の美しい娘を祀った、れいじんどうにたどり着きます。市川の文学の歴史は、彼女のことが万葉集によく詠まれるようになったのが始まりだそうです。
 伝承によると、手児奈は、満月のように美しい顔で、その美貌の噂は都まで広がり、大勢の男性から求婚されました。自分を巡って、人々が争い、不幸になるのを悲しんだ彼女は、真間の入り江に沈もうとする夕日を見て、「私さえいなくなれば、けんかもなくなる」と、そのまま海へ入ってしまいました。この地を訪れた行基ぎょうきは、彼女の悲しい話を聞き、弘法寺ぐほうじという寺を建てて、手厚くとむらわれたそうです。
 一五〇一年に、弘法寺の住職が、夢枕に手児奈の霊が現れたのを感じて、霊堂を創り、以来、真間の地を守護する女神として祀られるようになりました。現在は日蓮宗のお寺になっているので、お堂にも、「南無妙法蓮華経と唱えてお参り下さい」と書いてありましたが、私が唱える祈りは、いつでもどこでも「世界人類が平和でありますように」です。
 関西に帰ってから、手持ちの資料を見ていて、気づいたのですが、五井先生が最初、住まわれていた家は、この手児奈霊堂の近くだったようです。神様にお任せしていたら、必要な場所に連れて行って下さるのだと実感しました。

 五井先生は、二年近く、霊堂近くの貸家の二階で八畳と四畳の二間暮らしをされ、そこで相談事を受けておられました。階段の上に感謝箱を置き、謝礼を入れる入れないは自由にして、感謝箱に入ったお金を、神様から頂いた尊いお金と思って、貧しい生活をされていました。ところが、面白いことに、その日の終わり頃になると、決まったように、お金に困った人が相談にやってくるので、必要なだけ感謝箱から持っていかせたそうです。しまいには、市川には箱からつかみ取りでお金をくれる先生があるそうな、と噂になってしまいました。その様子を横関先生達が見かねて、もう、先生には、金銭面の配慮をかけてはいけないということで、会員組織を発足させる流れになったいきさつがあったそうです。

 里見公園のバラ園
 松戸街道に出てからバスに乗り、里見公園に行きました。国府台城こうのだいじょうという城が昔あり、戦乱の時代は、武将たちの争いの舞台になりましたが、現在は美しいバラ園があります。噴水を中央に、白、赤、黄色、ピンク等の色とりどりのバラ(百十二種、七百株)が美しく咲き誇り、バラのアーチを潜って、中を見て回れるようになっていました。
 かつて、市川駅北口ロータリーにも、「バラサンクンガーデン」という庭園がありました。五井先生も「駅前広場の天国」という詩で「その中に入ると周囲の騒音はすっかり消され天地和合の光につつまれる人々はその花園に一歩踏み入ると美の女神に抱かれたように世間の憂さを忘れ果てしばしは一日の疲れを忘却する」と詠まれています。
 現在は撤去されてありませんが、その縮小版が、里見公園のバラ園の一角に再現されていました。そこの説明板によると、昭和二十八年頃に、式場病院(聖ヶ丘跡の近くにある。院長の式場隆三郎氏は、山下清の才能を見出したことで知られる有名な精神科医)が中心になり、北口ロータリーに、バラの苗木三百株が植えられました。かつて駅前を行き交う人々の心を癒やしてきた、マダム・バタフライやピース、ヘレン・トローベルといった、当時流行していた品種が植えられていました。
 ピースは第二次大戦の終結を記念して、ヘレン・トローベルは、日米親善大使として来日したアメリカのオペラ歌手にちなんだ名前です。人は、生命のままに生きる美しい花に、神の御心を感じ、平和や人類の友好の願いを託すものなのですね。
 このバラ園にいた頃、ちょうど、高殿道場で錬成会が始まる頃でしたので、私も、そちらに意識を合わせてお祈りしていました。公園からは江戸川が見えます。渡し舟で有名な矢切やぎりの渡しはこの辺りです。せっかくだから、もう一度聖ヶ丘道場跡まで歩いて行こうかと思いました。
 じゅん菜池緑地という、緑の木々に囲まれた池のある、のどかな公園を通り抜け、聖ヶ丘の北隣の小塚山こづかやま公園にまでやってきました。かつての自然林が残った園内に、ベンチがありましたので、座ってしばし統一しました。時間は二時前後でした。この市川の地で受け取った五井先生、諸神善霊の光を、高殿にいる皆に届けたいと思い、「世界人類が平和でありますように。錬成会に参加されている方達の天命が完うされますように」と祈りました。
 後日、木村さんがメールで、「昨日の錬成会は、晃久さんが五井先生のお墓や所縁の地を五井先生を思って感謝の心で回ってられるので、時間空間を超えた光の交流の響きの錬成会だったと……ちょっとニュアンスは違ってるかもしれませんが、そんなことを先生がお話し下さってました! でも、五井先生をとても身近に感じた錬成会で、いつもと違う響きを感じ、とても暖かい気持ちになりました」と報告して下さいました。
 私も、縁の地を歩いていると五井先生の息遣いを感じるようで、先生のことをこれまで以上に身近に感じました。地元の人には何でもないようなところでも、五井先生の逸話が思い起こされ、どこも、特別な場所に思えました。
 これまで、五井先生はすでにこの世にいない人という観念があり、どこか離れた想いが残っていました。けれども、そうではないんだ、ただ、眼に見える肉体の衣を脱いだだけで、眼に見えない霊の身で、先生がこの世でも、霊なる世界でも、生き生きと働き続けていることには何も変わりはないんだ、と思えました。
 また、かつて市川におられ、すでに他界された、祈りの諸先輩、諸先生方のことがしきりに思われました。祈りによる平和運動の普及に尽力した、先人方の意志を僅かながらでも受け継ぎ、後世の人に五井先生のことを伝えていかないといけないと、改めて決意しました。
(風韻誌2016年9月号)

バラ園(著者撮影)