春天(しゅんてん)法話  尾崎元海

 神様とは
 五井先生は『神と人間』の中で、〝神とは宇宙に遍満する生命の原理、創造の原理であり、人間とは神の生命を形ある世界に活動せしめんとする神の子なのである〟と書かれていますよね。〝宇宙に遍満する〟とは、〝大宇宙のあらゆる世界に満ちている〟という意味です。〝生命・創造の原理〟とは、宇宙法則であり、万物・万人の中にあって常に新しいものを創り出してゆく絶対なる大智恵大能力ということです。
 人間は、神様・仏様というと、どうしても形あるものとして考えるんですね。どうしてかというと、形の世界で生き、肉体という固まった衣をまとっているからですね。神様を大光明であると考えていくと、肉体観念が急速に浄まって無くなってしまうんです。仏教では無碍光むげこう如来と言いますが、無限の光の絶対者ということで、実にうまく表現されていますよね。今日のように、〝物質は波動である〟と科学的に明らかになっている現在では、真理を容易に体覚しやすくなっているということになります。
 「世界平和の祈り」を祈り続けていきますと、無限なる大光明こそが自己の真の姿であり、神様の世界でもあることが実感されてくるんです。私達が肉体感覚で感じる物質宇宙や万物というのは、形なき大生命の創造力が現したものなんですね。その実体というのは、霊妙極まりない、永遠に存在する霊光れいこうということになります。その絶対力が肉体の中にあって生き、また大自然の全ての中にあって生きているわけです。〝神は全ての全てである〟ということですね。

 神の子とは
 〝人間の本来の姿とは、神様の創造せんとする力が、個々の人格に分けられたもの〟と『神と人間』に示されていますでしょう。〝形ある世界に、完全なる神の姿をえがきだそうとしている者である〟との光の言葉のなんとありがたいことか。無限の進化の道を生きるには、この真理を無条件に受け入れることから始まるんです。〝神の姿を画き出す〟とは、大愛・大調和・大平和の大光明を表現することですよね。〝世界人類が平和でありますように〟の祈り心の中に全ての想いを入れて生活している人は、すでにその大神業おおかみわざを実行しつつあるということです。
 いかがですか。こういう事実を突きつけられたら、もう一点の疑う余地のないほどの大確信に至ると思いますよ。神のみ心をそのまま現している人にとっては、大生命から与えられている〝おのが天命完う〟をより深く確信し続けるだけということになります。この信の心を深めてゆくところに、この世とあの世を貫き通した人生の醍醐味だいごみがあるんですね。

 覚悟をする
 「覚悟」という言葉は、一般には〝あきらめ〟とか、心がまえ、決心というように理解されていますよね。また〝死にぎわ〟とか、死ぬ時の状態として、〝往生おうじょう際が悪い〟というのはよく使われます。
 ところが、この言葉の本来の意味は〝悟りに目覚める〟ということで、人間にとって一番大きな課題なんですね。誕生すれば必ず往生するというのは、否定できない厳然たる事実です。このことを深く考えることなく死を迎える人が多いのは、実におかしなことなんですが、大半の人はそういう人生コースを歩んでいきます。
 「死」というのは、肉体という衣を脱いで、幽体と霊体の一部(霊魂)が他界という霊なる世界に生まれてゆくことなんですね。この世界は、大生命があらゆる空間(霊なる階層を含む)に満ち渡っている光の大海のようなものであって、その中には死せる部分などありません。生命現象の変化は、自然界や人間界にありますが、それらは他の物質に変化している姿なんですね。
 人間は大生命(神)よりきたる心(本心)であり、神よりさずかった尊い使命(天命)を肉体界に現すことを唯一の目的として、今、この世に生きているんです。〝大衆は人類業生ごうしょうはげしい渦の中を右に左に流されてゆく〟と『神と人間』の中にありますね。それは真実の自己を見失ったまま、その時々の自己の業生の感情想念や、社会や世界人類のごう想念波動にもてあそばれているわけです。その状態は業の波に首根っこを押さえこまれているわけで、業波動の奴隷のようになっているのですが、当人はそれが当然だと思って生きているんですね。
 それを本気で超えて、覚悟しきったところに真の自由・平和・安心があるわけで、その世界に帰る勇気を各人の守護の神霊や神々様は望んでいらっしゃるんです。一日も早く、そういう人が数多く出て頂きたいですね。

 新陳代謝しんちんたいしゃについて
 〝古いものが去り、新しいものが現れること〟というのは、誰もが知っているところですね。これは肉体の六十兆と言われる細胞のことを考えると、実に分かりやすい内容です。胃の細胞は三ヶ月で全く新しく生まれ変わっていきますし、他の諸器官もある程度の期間で入れ替わっていくんですね。
 では何がそうさせているかですが、これは言うまでもなく、人間に生命エネルギーを流し込んでいる大生命(神)の大御心おおみこころがそうあらしめているということになります。宇宙大生命から、精神と物質の根源の光が瞬々新しく生み出されているんですね。物すごいスピードで光のエネルギーが肉体に流れ入っているんですが、それはより大調和の響きを現さんとする絶対なる大愛の働きということになります。
 いわゆる宇宙法則という無限絶対力です。ということは、人間は瞬々新しい生命力によって絶え間なく生まれ変わっているわけで、昨日の自己と今日の自己は違いますし、今の自己と十分後の自己も違っているということですね。これが生命原理の真実なんですが、習慣性の想いの波動を自己と思い込んでいる人は、それらの波の中で〝ああでもない、こうでもない〟と迷い混乱しているのが、世の人々の実状なんです。
 そこで、それらの想念波動を相手にせず、掴んだままでもいいから、自己の本体であり、大生命の世界へと、平和の祈りという超高速の光のエレベーターで昇ってしまいなさいと、五井先生は仰しゃるわけです。神より来た人間が元の世界へ戻る方法を指し示して下さったわけですね。善悪混交の想念波動の世界を超えて、大光明波動の世界だけを相手取っていけば、だんだんと自己の真の姿が明らかになってくるんですね。生命の神秘を実感してゆくにつれ、至福の光の大道を歩んでいくことになるわけです。

 救い・救われについて
 宗教というと、現世利益りやくを得るためのものという考え方の人が一般には多いようですが、本来の宗教の目的は、魂の救われということですね。病気が治り貧乏を抜け出し、自分の願望を達成していこうとする在り方は、自分が肉体人間であると思い込んでいるところから出てくる自我欲望なんです。肉体を自己と思い込む人は、苦悩や恐怖心から決して抜け出せませんし、真の救われには至りません。
 なぜかというと、大きな錯覚のもとに生きているからです。人間の実体は内なる生命であり、肉体というのは生命が肉体界で働くための道具なんですね。自己が光り輝く光明体(光明心)であることを体覚しなければ、肉体身に執着する想いから生じる様々な苦悩や恐怖心は無くなることはありません。自己の本体は完全無欠なる生命であり、永遠に生き通すものであるとの大信念で生きていけば、病気や貧乏も治り、不調和も消え去るという、真の現世の利益りやくも伴ってきます。
 今の時代にあってもっとも大切な心は、正しい宗教信仰に徹していくことですね。世の中のすさまじい業想念波動に巻き込まれず、〝平和と大調和の響きの人〟と成りきって生きることが、〝無限の可能性を生きる〟という最大の幸福への道ということになります。

 この世とあの世とは
 大半の人々は、死んでからあの世に行くと思っているようですが、これも大きな錯覚なんですね。肉体をまとって生活していますと、肉体の諸器官の動きや反応に振り回される傾向があります。同時に、肉体頭脳に浮かんでくる、自分は肉体人間であるという妄念もうねんから発生した恐怖心や分別する想いに引きずり回されてしまい、混乱してしまうんですね。
 ところが真実は、肉体と同時に幽体(想念波動の記録の場)があります。その奥には、霊体があり神体があるんです。霊体は生命体であり、神体は宇宙大に広がる神のみ心ということになります。例えば、睡眠中は意識体は肉体を離れ、霊界の上層か神界に、守護神様に導かれて魂の浄めをして頂いているんです。この状態は、実は死と同じなんですが、違うのはたまという霊線が肉体とつながっているところですね。
 ですから、人間は毎日、生死を繰り返しているというのが真の姿なんです。こういう多重層のボディを持って存在しているのが、人間の実相ということになります。大抵の人は、幽体に記録されている想念波動のままに、この世を送っていくんですが、その中にあって、内なる魂は真の安らぎを求めていこうとします。これは当然のことで、魂は霊なる生命の光に帰ろうとするんですね。
 この働きが表面意識に伝わってくると、肉体側は、普段の想念の波の世界から離れようとします。それは良き音楽を聴いたり、自然界と接したりして、心身のバランスを取ろうとするわけです。この行為は本人が気づかなくても、良き高い響きの芸術であれば、霊体の高い世界に想いが入っていきます。自然界となると、神様のいのちの波が満ちていますから、心と体が癒やされるということになるんですね。これも、想いが霊体の高い響きに同化していっていることなんです。
 人間というものは、想念波動は実感するところですが、生命波動にも直観的に反応することができるんですね。これがあるので、人間は救われの世界にやがて至っていくということです。

 この世は魂の練磨の最高の場
 時々あるのですが、〝あまりに苦しいことが多いから死んでしまいたい〟という人がいるんですね。死んだら何も無くなって苦しまなくてすむ、と思っているわけです。ところが、ほんの少し意識が眠っていても、すぐに目覚めて、苦しい状況が展開するんですね。あの世は、その人の想念傾向に似た人達ばかりがいる世界ですから、どうにも心が休まる時がないんです。肉体界のように、一定時間の睡眠もありませんし、周りの人からの応援もありません。
 それと、あの世の最大の特徴は、想ったことがすぐに自分に返ってくるということですね。うらんだら恨まれる、怒ったら怒られる、なまける想いでいると怠惰たいだという忘念が押し寄せてくる等々、どうにもこうにもならない状況が続くんです。肉体界の苦しみの何千倍、何万倍以上ですから、波動がゆるやかで、周りの人からの援助があり、一定時間の休める時間があるこの世は、どれほど楽でありがたいか分かりません。あの世のことに対する認識が、今の世の人はあまりにもなさすぎるんですね。
 よく亡くなった人に、〝どうぞ安らかに眠って下さい〟と言っている人がいますが、そんなことは絶対にありません。魂が立派で穏やかで安らかな世界に移行する場合でも、決して眠ってばかりということはありませんし、守護神様の導きによって魂の磨きをしていくことになります。人間は本来、神の分霊わけみたまですから、神のみ心に反する業想念は消し去ってしまう以外ないという厳しい面が、この人生にはあるんですね。都合の悪いことから目をそらさずに、守護の神霊への感謝の心を根本にして、「世界平和の祈り」の大光明で浄めていただく以外、救われの世界に至っていくのは難しいということになります。
 要するに、神様の生命に感謝し謙虚に生きるということです。守護の神霊への感謝や周りの人々への感謝も当然のことですよね。それと、周りの人々の幸せを念じ、与えられた仕事に全力を尽くすということです。愛と真心とゆるしの心で生命を燃やしていくことが、魂を磨くということですから、日々を大切に感謝の心を忘れずにということになります。
(風韻誌2016年3月号)