『幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣ん。幸福なるかな、義に飢え渇く者。その人は飽くことを得ん。幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん。幸福なるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり』 (マタイ伝第五章三—一〇)
「山上の垂訓」と呼ばれるイエス・キリストの説法があります。ガリラヤ湖畔の小高い丘の上で、イエスが弟子たちや民衆に説いた教えをまとめたものです。「求めよさらば与えられん」や「汝の敵を愛せよ」といった言葉も、この中にあります。「山上の垂訓」は、「幸福なるかな」という言葉が繰り返される有名な説教から始まります。五井先生が『聖書講義』(白光出版)で詳しく解説されているので、ご紹介したいと思います。
最初の「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」は、普通に読むと違和感を覚えます。「心が貧しくて、愛の気持ちが乏しいような人が、天国の人であるわけがない。心は豊かでないといけないのではないか?」と疑問に思う所です。
五井先生は、心が貧しい者とは「心が貧弱なという意味では勿論ありませんで、心の謙虚な人という意味であります。心の謙虚な人は天国の人だというのであります」と解説しておられます。
当時のユダヤ教の学者や僧侶、権力者は、心が謙虚でない、驕った人たちが多かったようです。「自分たちは、ユダヤ教の律法を守っており、普通の人よりも神様の教えがわかっていて偉いんだ。宗教的な権威があるんだ」、「財産や地位があるんだ」と思って、社会的に弱い立場にある人々を見下し、一番肝心な愛の心に欠けていたわけです。そういう心驕れる人たちは、イエスの説く真理を素直に聞こうとはせずに、迫害する側に廻りました。
反対に、イエスを信じた人たちは、病気や貧しさの中にあって苦しんでいる人、罪を犯して悔いている人などが多くいました。弟子のペテロにしても漁師ですし、知識階級の人ではありません。自分は宗教的なことは何もわからないし、立派な人間でもない。だから素直に先生の説かれることを聞こうという、へりくだった気持ちになっていたわけです。
「心貧しき者とは、心が謙虚で空っぽになって、素直に真理の心を受け入れる状態になっている人のことである」と五井先生は仰しゃっておられます。
「(経済的に)貧しい者は幸いだ」との訳もありますが、貧乏でも、謙虚でなく、不平不満ばかり言って暗い想いで生きている人は、亡くなってからも、不自由な生活を続けることになります。富があっても、心が謙虚であればいいわけです。
しかし謙虚が行き過ぎて、私は駄目な人間だと自分を卑下してしまうと、これも、自分の内なる神性を否定することになってしまい、良くありません。高慢は悪いことと誰もが思いますが、五井先生は卑下することも卑下慢と呼んで、生命を汚す行為と仰しゃっておられました。
俺は偉いという想いも、反対に駄目な人間だと卑下するのも、どちらも「人間は本来神の分霊である」という真理を知らなかった、過去世からの想いの癖の消えてゆく姿です。私も、しょっちゅう、そういう想いが出てきますが、その度に、平和の祈りにお返しして、神様に消して頂いて、神の子の自分のみを尊んでいくことが大事だと思います。
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」。悲しい時に、聖書のこの言葉を思い出し、神様の愛を感じて、心慰められる体験をしたクリスチャンは少なくないと思います。私も過去の体験で、悲しい時は、五井先生のことを普段より強く思うので、余計に神様の愛の響きがこちらに伝わってくるのを感じたことがありました。
悲しいことなど、最初から起こらないほうが幸いだと思う人もいるでしょう。そこで、五井先生は「悲しむ事柄がその環境に現われてきた場合、それは過去世の因縁が消えてゆく姿として現われてくるのでありますから、悲しみが現われてきた場合には、守護の神霊方はよかったね、もう悪いことはそれで消えていったのだよ、これからは本心、本体の真実の光が現われてくるのだよ、と慰められるのであります。
悲しみや苦しみの種を底に持ちながら、それがまだ現われない時よりも、もう現われてしまった後は本心の光明が現われるだけというほうが幸福というべきなのです」と、聖書には記されていない、過去世の因縁の消えてゆく姿という説明を加えて、神の愛を明らかにされています。
現在は何も不幸なことがなく、順風満帆で、人生を謳歌して幸せな気持ちでいても、その人の生き方が神様のみ心から外れていて、潜在意識の中には、不幸になる業因縁の波がたくさん潜んでいることもあります。これまで幸せだったのに、突然予期せぬ悪いことが起きて、不幸になってしまったと嘆くことがあります。しかし真理の観点から言えば、それで過去世からの業が消えていって、本心の光明が現れてきて、これから運命が開けてくるわけです。悲しい出来事の奥に、守護の神霊の大いなる慈愛を感じ取り、感謝することができる人は、誠に幸せな人だと思います。
「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣ん」は、柔和な者が地上世界に調和をもたらすということです。「柔和とは文字通り、柔かく和している心でありまして、恨み心や傷つける心がある限りは、真の柔和というわけにはまいりません」と仰しゃっていますが、案外、平和を訴えている活動家が、柔和でない闘争的な想いでいることがあります。
昔、共産主義、社会主義の思想が広まり、武力を用いてでも、富める資本家階級を倒して、貧富の差のない理想的な社会を作ろうという、左派系の人による平和活動がありました。五井先生は「いかに貧しき者たちのために尽している人でも富める者たちに反感を抱いて、ことごとに富める者の悪口をし、富める者を滅ぼし去ろうとするような生き方は、柔和なる者地をつがんの生き方ではありません。一方を愛するのあまり、一方を恨み傷つけるような在り方は、神の心ではないのです」と、その活動の誤りを指摘されています。
イエスは、虐げられている貧しい人に対する愛情が満ち溢れていた聖者ですが、富める者も貧しい者も、皆神の子の生命の兄弟姉妹で、お互いの過去世からの因縁でそれぞれの立場に置かれていることもおわかりになり、汝の敵を愛せと説かれました。しかし唯物論者には、そういう深いことは掴めず、偏った感情になってしまうわけです。
この世の悪や不正を不快に思い、より良い世界にしていかなければいけないと思うのは自然なことです。どんな権力に対しても、間違ったことに対しては、それは違うと堂々と主張していく勇気も必要です。しかし相手を憎悪する想いは、生命を傷つけるものですから、そういう想いが出たら、消えてゆく姿にして、全ての人の神性顕現を願う「世界人類が平和でありますように」の祈りに切り替えていきたいと思います。
「幸福なるかな、義に飢え渇く者。その人は飽くことを得ん」。義に飢え渇く者とは、常に神のみ心に沿った正しいことをしたい、神のみ心がこの地上界にはっきり現れるための働きをしたいと切望している人のことで、その人々の後世は神霊の世界において、神のみ心のままの自由自在な生き方ができるということです。
私たちの会のメンバーでも、最初から神のみ心を現したい、世界平和のために働きたいという熱烈な気持ちに駆られていたわけではなく、自分の悩み事や目の前の問題を解決してほしくて、繋がった人が多いかと思います。しかし、平和の祈りを祈り続けていく中で、次第に個人的なことに把われる想いが浄まり、大きく世界のために働きたい、本心の自分の姿を限りなく現したいという想いが内催しに湧き上がってこられたわけです。
次の、「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」という言葉ですが、よく、他人から憐れみなど受けたくないと、同情されるのを嫌う人がいます。
五井先生は「人の不幸や悲しみに心から同情し、我がことのように尽せるような愛の心の深い人は、自分がしたと同じように神様からも愛される、ということでありまして、ただ自分のセンチメンタリズムを満足させるような憐憫感ではないのです。他の人と同悲同喜する深い愛の心が、真実の憐憫感なのであります。自分を優位に置いて、高いところから人を憐むというような憐憫感は真実のものではないことを、よくよく知っておいていただきたいものです」と、私たちが取り違えることのないよう注意されています。
確かに、相手に高みから見下ろされて、可哀想に思われるのは、かえって反発を感じてしまいます。高いところから憐れむというのは、相手を神の子だと思っていない、業生の存在だと思って、見下していることになってしまいます。
私は感傷的でよく涙を流す方なのですが、相手の苦しみに心から同情し、尽くせる愛の心が十分出ているかとなると、そうは思えません。自分の愛情の不足分は、守護の神霊と五井先生が補って下さると考えています。五井先生のことを深く思って、相手の天命完うを祈れば、五井先生の愛の光が流れていき、向こうに尽くしていることになると思います。
「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」は、「純真な、清らかな人はそのままで自己の心に神が輝いているのでありまして、常に神を自己の行為の中に見出していることになるのであります」ということです。
私は、汚れた想いも一杯あり、悪い事も色々と考えてしまいますが、その想いを消えてゆく姿にして、守護の神霊に浄めていただけば、自然に、心の清い人間になって、神の姿がどんどん現れてくるので安心です。日常での実践と、座っての統一行の時間を毎日設けることで、自己の心の汚れを常に浄め続ける努力をしています。
「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん」。これは、先に紹介した「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣ん」に続く言葉になります。
柔和とは、辞書で引くと、性質がやさしくおとなしいことと出ています。一般に心優しい人は、気が弱く、自信や力強さに欠けていることもあります。ここで、イエスは、単に柔和であるというだけではなく、一歩前進して、神の子としての強い信念を持って、平和の光を響かせて、世界平和を創造していく生き方を人々に呼びかけておられるのです。
「真実に柔和なる者でなければ、この地球界を維持してゆくわけにはまいりません。何かといえばすぐ腹を立て、自己や自集団の利益に反すれば直ちに武力で相手を屈服せしめようというような人びとでは、とても地球世界の運命を完うしてゆくことはできません。
しかしながら過去から今日までの歴史は、弱肉強食の動物性さながらの世界でありまして、柔和なる者たちは、常に下座にあって、自我心の強い、利益権力のためには、人を痛め傷つけることなど、何とも思わぬような人びとによって、この地球世界の運命は左右されていたのであります」と先生はお書き下さっています。
自我の強い人たちに地球の運命を任せてしまって、柔和な人たちが、その業の迫力に圧倒されて、小さく縮こまって生きていたのでは、世界は良くなりません。柔和な者こそが、大いなる自覚を持ち、積極的に世界平和のために働かなければいけません。
続けて、「神のみ心は、そうした不合理を改革なさろうとして、柔和なる者こそこの地球界の運命を担ってゆくものであって、いかに苦難の道がつづこうとも、恨みや憤りや妬み心など起こさず、柔和な心をもちつづけなければいけない、とイエスに説かせたのです。
そして更に一歩進んで、そうした柔和なる者のみの地球世界にするためには、まず武力や権力欲や恨みや憤りを浄め去るべき、平和の光をひびかせてゆく人びとが必要なのだ、と説くのであります。
平和の光をひびかせ得る人びとは、ただたんなる柔和というのみではなく、何者なにごとにも恐れぬ勇気が必要なのです。その勇気はどこから湧いてくるかというと、神のみ心と直接つながっている心から湧いてくるのです。自分は神の分生命なのだ、神の子なのだ、自分は神の理念をこの地球界に現わすためにこの地球界にきているのだ、という、強い信念がなければならないのです」と書いておられ、勇気が湧いてまいります。
ただ何となく生きているのではなく、「平和の祈りを行じている私は、天のみ心をこの地上に現すために、今ここにいるんだ」という自覚をしっかりと持つことが大事です。どの宗教団体も、人間は神の子(仏)であると説きますが、実際にこの世界を平和ならしむる働きをしないことには、神の子の姿を現していることにはなりません。
私たちは日々世界平和の祈りを実践することで、地球界に光をふりまいています。「平和の祈りをしている者は、神の子の姿を常に現わしている尊い人なのです」と五井先生も私たちのことを称えて下さっていますので、神様に祝福される生き方をしていることに、もっと自信を持っていきたいと思います。
洗礼のヨハネという、イエスの前に真理を伝えていた聖者がいます。自我欲望の想いで生きていた人々に対して、悔い改めよと説き、ヨルダン川で洗礼を授けていました。彼のもとに、まだ無名だったイエスが洗礼を受けるために訪ね、ヨハネはこの方こそキリストであると人々に宣言しました。聖書ではイエスの方を高く置いていますが、実際にはイエスと同格の聖者で、イエスの師であると五井先生は仰しゃっていました。最後は、ユダヤのヘロデ王の間違った行為に対して、はっきりと物申したことで、捕まり首を切られました。殺されることに少しの恐怖心もない、凄い勇気の持ち主でした。
イエスはヨハネのことを第一に思って、「幸福なるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり」と言ったのですが、イエス自身も、最後十字架にかけられましたし、イエスの弟子たちも多くが殉教しました。
幸い今の日本では、昔のように、義のために責められ、投獄され、殺される心配はありません。人から自分の信仰を批判されることはあるでしょうが、それも自分の魂の磨きになるんだと受け取り、良い時代に生まれたことを感謝して、堂々とこの運動を広げていかないと、命がけで伝道した昔の信仰者に対して、申し訳ありません。
五井先生は、人類社会のために、すっきりした心で生命を捧げた(捨てた)人々は、みな天国の住人となるのですと仰しゃっています。イエスの「生命を捨てざれば生命を得ず」という言葉がありますが、肉体にまつわる業想念を祈りの中に捨てて、神様にきれいさっぱり浄めてもらい、祈りの中から新しく神様の生命を頂き直していけば、私たちも、イエスの言葉を実行していることになります。
「幸福なるかな、世界平和の祈りを祈る者。天国はその人のものなり」。この祈りを祈ることの幸せを、深く噛みしめずにはいられません。
(風韻誌2016年3月号)