人間と動植物の生命の交流 尾崎晃久

人間と動植物の生命の交流 尾崎晃久

 昭和五十年四月の御法話で、五井先生は、「聖ヶ丘には色んな花が咲いているんですね。小さい花が命を一杯広げて、なんとも言えない愛の光を投げかけてます。私がこう歩きますとね。近頃体がだいぶ調子が良くなったから、朝、ずっとここを廻るんですね。そうすると小さい花が話しかけてくるんですね。先生おはようございます、と本当にそう言うんですよ。
 可愛い。妖精ってあります。本当にあるんです。先生おはようございますって喜んでね。
私がおはようと言って、一々こうやって光を投げかけて、池の鯉に光を投げて、餌をやって廻ってくるんですけどね。人間も可愛らしいけれども、鯉でも草花でもとても可愛いものですね。命というものがなんといいものか、しみじみ思います。命が愛らしいんですね。
 だから、我々は人間でもって、神様の生命をそのまままっすぐにもらっているんですよ。
 草花とか動物というのは、神様が別にあって、何々の神様って、神様に創られている形なのだけれども、やっぱり、その中には人間の霊とは違うけれども、精霊みたいな、なんと言いますか、ちょうど人間のこんにあたるのかな。霊が神様になっちゃってるんですね。それで、魂にあたるような存在でもって、魂魄こんぱくみたいな存在で、動物や草花があるんですね。そこにやっぱり映ってましてね。精の、命の光がね。それで人間と交流するんですよ。こっちが愛すると向こうが本当に愛して、なんとも言えない良い気持ちですよね」と仰しゃっていました。
 五井先生は、晩年聖ヶ丘道場の、昱修庵いくしゅうあんという建物に寝泊まりされて、地球世界の業を一身に引き受けてお浄めになられていました。地球世界の汚れた波を日々感じる生活の中、純真無垢な穢れなき花々の美しさは、どんなにか先生の心を和ませたことでしょう。
 その時、先生が、花々に「おはよう」と言って、手をかざして光を放射してあげると、光を受けて、花の精たちも喜ぶのだそうです。
 大学生の頃、聖ヶ丘に通っていた母は、聖ヶ丘の鯉のことはよく覚えているそうです。とても人懐っこく、池に近づくと寄ってくるので、母も頭を撫でたりしていたそうです。鯉も、会員さんの祈りの光の波、愛念の波を、感じていたのではないかと思います。
 「遊園地などで池を覗くと、鯉が餌を貰えると思って近寄ってくるのを経験したことはあるけれども、それとは何か違ってイキイキしていて、頭撫でてと甘えて催促してくるような感じで、ようこそ聖ヶ丘へと歓迎してくれているようだった」と母が言っていました。
 魚は人間の顔を判別できている。知らない人の顔を見たら警戒するという研究結果が報告されているので、人間に懐くのは確かなことです。
 一方、動物と違って、植物には、精神がないとされています。昨年の夏、私の部屋で育てていたペペロミア・グラベラという観葉植物が、猛暑のせいで、葉っぱが落ち、何本も茎が折れてしまい、もうダメかなと思っていましたが、なんとか乗り越えることができました。今年に入り、一回り大きめのサイズの鉢に植え替え、新しい茎や葉も多く出て、勢いよく成長しています。ガジュマルも、購入した時の小さい鉢のままだったので、根詰まりしたのか、一、二か月ほど前、葉っぱが変色して落ちて、生長が止まったように見えましたが、植え替えたことで、また、瑞々しい葉っぱがたくさん出てきて安堵しました。自分で水をやったり、日当たりを気にしたりして育てていると、自然に愛情が湧いてまいります。
 しかし、人間が愛情をかけて育てたところで、植物には精神がないのだから、植物は人間に対して何も感じてないはずだと、普通は思います。
ところが、五井先生がよく仰しゃっていた、宇宙子うちゅうし科学の原理によると、植物にも、精神宇宙子という精神波動があるのだそうです。
 五井先生は「私はどの花をみてもその花に語りかけたくなってくる。すると、花のほうでも喜びの表情一杯に私を迎えてくれる。お互いの生命が通い合い自ずと愛の交流がなされるのである」と、ある随想で書いて下さっています。
 私も、家の庭や近所に咲いている花や、樹木の瑞々しい緑に触れると、なんとも良い気持ちになって、花さん、樹木さんありがとうと、自然に、心の中で語りかけることがあります。人間が花の、自然の生命のままの、愛と調和に充ちた美しさに感動し、喜び、愛情を注いでいると、花の方も、その人間の心の響きを感じ取って、喜んでくれているのでしょう。そこで、お互いの生命が通い合い、愛の交流がなされるわけです。
 日本人は、古来より、日常生活の中で、そういうことを自然と為してきたのだと思います。しかし、最近の桜の花見では、花を愛でることよりも、大勢で集まってお酒を飲んで騒ぐのが目的になってしまい、人間の汚れた業の波で、花の生命の美しさを汚してしまっているようで、申し訳ない気がします。反省すべきことでしょう。
 五井先生は「草花とか動物は、神様が別にあって、神様に創られている形なのだけれども、その中には人間の霊とは違うけれども、魂魄みたいな存在で、そこに命の光が映ってましてね。人間と交流するんですよ」と仰しゃっています。
 普通、宗教では、霊も魂も同じような意味で使いますが、五井先生は、はっきり分けて説明されていました。五井先生が仰しゃる「霊」とは「神」と同じ意味です。
 人間には、他の生物にはない、いろんなものを自由に創造する力や、計画する力が備わっています。この創造する力、計画する力の元のエネルギーは、霊(神)の中にあるんだと、五井先生は説明されています。
 五井先生のご著書『神と人間』には、「神(宇宙大神)の一部の光は、海霊うみだま山霊やまだま木霊こだまと呼ばれ自然界を創造し、活動せしめ、その一部は動物界を創造し、後の一部の光は直霊ちょくれいと呼ばれて人間界を創造した」と解説されています。
 ルネサンスの芸術家のミケランジェロが、旧約聖書の天地創造を描いた、システィーナ礼拝堂の壁画を皆さんもご存じかと思います。白髪でひげを生やした神様が、星や人間を創造する場面が描かれていますが、あの絵のように、唯一絶対なる神様、宇宙大神様がお一人で、すべてを創造されたという印象があります。しかし、正確には、一なる宇宙神が、多種多様な神々の光の働きに分かれて、神の創造活動がなされたわけです。
 宇宙神の一部の光は動物界を創造したとのことですが、犬や猫や魚や鳥とは別に、それらの生物を創造された神様がいらっしゃるわけです。その動物を司る神様の中に霊があって、創造能力があって、動物を動かしているわけです。植物の場合も同じです。
 ところが、人間の場合は、人間とは別に直霊という神様がいらっしゃるわけではないのです。人類は、直霊から分かれた分霊であって、神と人間は本来一つのものであるわけです。人類は神によって創られた被造物ではなく、創造主である神ご自身から分かれた存在です。
 五井先生は、「神さまは宇宙の万般を創られた。それと同じような創造力が、そのまま入っているのが人間なのです」と仰しゃっています。この言葉を聞くと、人間とは本来、なんと尊い存在である事かと、鳥肌が立つような感動を覚えます。
 しかし、現在の人類は、神の分霊の姿をほんの僅かしか現せていません。肉体界で生活する中で、自分達が神より来た生命であることをすっかり忘れ果て、肉体の自分の生活や利益を守ることだけに想いが把われ、本心が業の波に覆われてしまっています。
神 さまからせっかく頂いた創造する力も、肉体の自我欲望を充たすために使ってしまっています。自分の国を守るという名目で、核兵器を始めとした、人を殺傷する多くの武器を創り、不調和な世界がくりひろげられています。人間同士、傷つけ合うだけでなく、環境破壊を引き起こし、他の生物に様々なマイナスの影響を与えてしまっています。業のままに生きている人は、植物や動物以下の存在になってしまいます。
 守護霊、守護神の絶大なる光の援助を受けることで、人類は、神の分霊の姿を現し、神の御心の愛と調和の世界を、地上界に創り出していくことができます。
 人と人、人と植物、人と動物の生命が通い合い、愛の交流が為される、大調和した世界が、一日も早く実現するように、一切の不調和は消えてゆく姿と感じて、守護の神霊に感謝し、平和の祈りを祈り続けて、全ての生命の天命完うを祈り続けてまいりたいと思います。
(風韻誌2021年9月号)