神はわが命 尾崎晃久

神はわが命  尾崎晃久

 「生命讃歌」という五井先生の詩があります。この詩を声に出して読むと、大変力強い響きを感じ、我が内なる生命をめ讃える気持ちが心の奥底から湧き上がってきます。

 生命讃歌
 神はわがいのち 神なるわがいのち
 さはりなく 汚れなきわが心
 悲哀なく 怒りなきわが心
 霊の身も 肉の身も
 明るく 浄く
 天にあり 地にありて
 星と照り 百花を咲かす
 青空の中に
 光の中に
 虚空の中に
 大地の上に
 滅びなきいのち ゆるぎなき力
 輝きて生くわがいのち
 生き生きと生く神のみいのち
 (『ひゞき』五井昌久著 白光出版)

 最初に、「神はわがいのち 神なるわがいのち」と書いておられます。
「私は神様の存在を信じています」という人でも、神様と自分とは別だ、神様は神様、人間は人間で、神様と人間を全然別個の離れた存在だと思って、神様を自分から遠く離れたところにおいて仰いでいる人もいます。
 しかし、本来、神と人間というのは、別々の存在ではないわけです。神様は私の命である。私のいのちは神そのものである。人間は、神様の分け命であって、それが真実の自分であると、私たちは五井先生より教わっています。
 生命を讃歌するとは、神を讃歌することであり、真実の自分を讃えることでもあると思います。
 神様は大宇宙に遍在遍満していて、あらゆるものの根源の力でありますが、人間一人ひとりの中に分霊として入ってきています。
 それが、肉体をまとって、生まれ変わりをするうちに、神と自分は本来一つのものであるということがわからなくなって、神様の御心から離れていって、いろんな迷いの想いが生じたと聞いています。
 神道では、人間を何々のみことと言います。人間は神の命そのものであるという真理を、昔の人はわかっていて、生命のままに生きていた時代もあったわけです。
 その神なるわが命というのは、滅びることがない。肉体が亡くなった後も、永遠に輝き生き続けるものであります。
 そして詩は、「さはりなく汚れなきわが心 悲哀なく怒りなきわが心」と続きます。
 神はわが命であり、我が心でもあります。
 ここで言う心というのは、神様の心である本心のことです。本心であるわが心の中には、悲哀もなく、怒りもなく、いかなる汚れもなく清浄です。これは、どんな人もそうであるわけです。
 表面は、どんなに悩み苦しみ、絶望の底に沈んでいるような人でも、その人の本心の中には、何の悲哀の想いもなければ、怒りも苦悩もなく、輝きわたっているわけです。
 世間一般で心と言っているものを、五井先生は神様の御心である本心と、肉体をまとってから生じた波動である感情想念と、はっきり二つに分けて説いておられます。
 世界平和の祈りを祈っていても、いろんな悲しみや怒りの想いが湧いてくることも、現れてきた不幸、災難に把われ、悩み苦しむこともあります。
 普通は、今の自分が悲しんでいるんだ、怒っているんだ、悩んでいるんだと思います。
 ところが、五井先生は、そうじゃないんだと仰しゃっています。今の自分は世界平和の祈りを祈って、神と一体となって、光り輝いているわけです。
 では、悲しんだり、悩んだりしているのは何かというと、今の自分ではありません。
 過去世の神様から離れた想い、まだ、自分が神より来た生命であるという真理を知らなかった過去世からの想いの波が、潜在意識(幽体)にたまっていて、それが、救世の大光明によって浄められて、表面に浮かび上がって、消え去っていこうとしているわけです。それは自分ではなくて消えてゆく姿です。
 真実の自己というのは、神の生命だけであるということを信じることが大事です。
 しかし、最初、話を聞いているだけでは、そういうことがよくわからなかったりします。
 これまで長い間、肉体と肉体にまつわる感情の想いが自分だと思って生きてきて、周囲の人もみんな、そう思っているわけですから、急に、人間は本来神の分霊である、と言われてもピンとこないわけです。
 私も、最初は頭で理解していた程度でしたが、消えてゆく姿で平和の祈りを行じ続けていると、徐々に実感を伴ってわかってきたように思います。
 「現れてくる不幸、災難も、それに把われて悩み、苦しむ想いも、みんな真理を知らなかった、過去世からの想念所業の波が消え去ってゆくんだなぁ。平和の祈りの光明波動の中で、みんな消えていって、後に残るのは光り輝いた神の生命の自分だけ。ああ自分は本来神と一つのもの、永遠に滅びることのない生命だったんだな」と必ず思えるようになってきます。それは時間の問題です。
 肉体、幽体の汚れた想いの波が浄まってくると、神の命の光が、肉の身を通して限りなく現れてきて、柔和で明るい人間になってきます。
 霊の身も肉の身も明るく浄く輝いてきます。
 今、すでに、自分は神の生命そのものであると深く思えているという人もいるでしょうし、そう思えないという人もいるでしょうが、平和の祈りを祈り続けてゆけば、必ず神性自覚は深まってきます。
 ですから、どんな想いが出ても、どんなことがあっても、消えてゆく姿と思って、守護霊、守護神に感謝し、平和の祈りを祈り続けることが大事だと思います。
 どんな人でも、やがて、祈りの中から、永遠に滅びることのない、神なるわが命、我が心をはっきり見出していくことに必ずなります。
(風韻誌2019年5月号)