心はいつも青空 尾崎晃久
心の天候
四月に、静岡市にある染色家の芹沢銈介氏(1895~1984年)の美術館に行きました。民芸運動の作家で、文字を意匠化した独創的な作風で知られています。
芹沢銈介美術館の学芸員の方が、芹沢銈介の作品の魅力を、「一片の雲もない青空」と評していました。
「芹沢銈介の魅力をひとことで表現するのは難しい。(中略)しかし、あえて一つ挙げるとするなら、そのくもりのない明るさにあるのではないかと思う。
芹沢の師・柳宗悦の『心偈』に、『今日 空 晴レヌ』という言葉がある。柳自身の解説によれば、『蒼々とした空が晴れ渡る時のすがすがしさ』『晴れた心の様』を表現した言葉なのだが、その境地が、芹沢の莫大な量の仕事に貫かれている。(中略)
たとえばその色に関していえば、ほとんど原色に近いような派手な色を多用しているのだが、少しも俗に落ちず、むしろ高い品格を保ち、暗さや影、濁りなどとは無縁の、清らかな明るさを示している」(芹沢銈介展カタログより)。
芹沢さんの満面の笑みを浮かべたお写真を拝見すると、作品だけでなく、自分の体全体を通して「青空のような清々しい、くもりのない明るさ」を現された方だと感じます。
私もそうありたいものだと思います。しかし、中々いつも青空のような心ではいられないものです。
天候というのは、さっきまで晴れていたかと思えば、曇り空になり、急に雨が降り出し、常に変化していきます。それと同じように、人間の心の中の天候も移ろいゆくもので、爽やかな心地よい気持ちになっていることもあれば、もやもやして、心の中がすっきりしない、曇り空のような心境の時もあります。時には、憂鬱な気持ちになって、心の中が雨模様ということもあります。激しい感情想念の嵐の渦の中に巻き込まれて、心が荒れて、豪雨のような状態もあるわけです。
そもそも、心というのは一体何なのでしょうか? 五井先生は、普通の人が心と一括りにして言っているのを、本心と業想念とはっきり二つに分けて説いて下さっています。
人間の本心は、完全円満な神の分霊であって、本心の自分が、悩んだり、嘆き悲しんだりということはありません。本心は、いつも太陽のように光明燦然とし、青空のように澄みきっています。
それに対して業想念というのは、神の分霊が、肉体を纏ってから生じた波動です。分霊が、幽体、肉体という荒い波動の体を纏って、地上世界で生まれ変わりを繰り返していくうちに、次第に、自分たちが神様から来た生命であることを忘れ、肉体の自分のことだけを考えて生きるようになり、神様の御心から遠ざかってしまって、色んな業の想いが生じたと聞いております。
過去世からの、神様の御心を離れた業想念の波が、潜在意識(幽体)に蓄積されていて、それが縁に触れて、不調和な出来事や想念行為となって、現れてくるわけです。私たちの心の中の天気が、時に、もやもやして曇りだったり、憂鬱で雨模様だったりするのは、業想念が現れては消えてゆく姿であって、それは真実の自己ではありません。
本体は神界にある
五井先生は、あなた方の本体は神界にあって光明燦然としているんだ、とよく仰しゃっています。
こう説明するとわかりやすいかもしれません。太陽は、地球から遥か遠く離れた場所にあります。しかし太陽が発している光というのは、地球上まで届いているわけです。
それと同じように、私たちの本体(神体)も、神界にあって太陽のように輝いている。その光が、霊体、幽体を通って、肉体まで流れてきている、写ってきているわけです。
しかし、本体の神様の光が、そのまま100%肉体に写しだされてきているかというと、そうではありません。その光を妨げているものがあります。それが業想念です。太陽と地上との間に雲がたくさんあると、日光が雲に遮断されて、地上は薄暗くなってしまいます。それと同じように、本心の光を、幽体、肉体にある黒雲の想いが遮っているわけです。
空一面が黒い雲で覆われていて、どしゃぶりの雨が降っている日であっても、雲の上では雨は降っていなくて青空が広がっています。太陽は常に輝いているけれども、雲があるので、地上まで光が差し込んでいないだけです。雲が通り過ぎれば、また太陽が現れて、地上が明るくなります。
人間の心の状態もそうで、時には、憂鬱な気持ちになることもあるでしょうし、不安な気持ちに駆られることもあるでしょうし、イライラすることもあるでしょう。どんな想いも消えてゆく姿と思って、守護の神霊への感謝と共に、平和の祈りの中に投入してしまえば、神様の慈愛の光明の中で、黒雲の想いは浄められ、消え去ってゆき、本心の生命の光が、肉体を通してより輝きだすことになります。
世界人類が平和でありますように、と祈っている時は、私たちは本心と一つになっています。祈りが深まってくると、本心の自分の前を、想いの雲が通り過ぎてゆくなぁと、客観的に、消えてゆく姿を見ることができるようになってくると思います。
しかし、普通の人は、消えてゆく姿という真理を知りませんので、消えてゆく姿を本物と思って、掴んで離さないでいるわけです。
現れてきた想念行為や不幸災難に想いが把われ、それをいつまでも掴んで、嘆き続けたり、怒り続けたりしていたのでは、業は消えてゆきません。再び自分の中に、不調和な波を引き戻してしまい、仏教の言葉でいえば、業が三界(肉体界、幽界、霊界の下層)をぐるぐると輪廻してしまうことになります。
嫌な出来事も、不調和な想いも、消えてゆく姿と思って、平和の祈りに投げ入れることで、神様の光の中で業想念は消え去ってゆきます。
自力で業はなくせない
五井先生の教えは、他力易行道ですから、自分の力で、自分の中の悪い想いを無くしなさい、とは説いておられません。それは普通人には無理だと思います。
人間の想いというのは、昨日、今日、急に生じたものではありません。過去世というのがありますから、過去の何百年、何千年の間に思ったことが、潜在意識に蓄積されています。
前生において、ある人から酷い目に遭わされると、「この野郎!」という想いが潜在意識に記録されます。生まれ変わって、また、その人に会うと、中にあった想いがいやおうなしに出てくるわけです。今生では何も嫌なことをされなくても、何となく虫の好かない奴だと思う。表面の意識では、そんなにこの人のことを悪く思っちゃいけない、優しくしなければと思っているのに、つい冷たい対応を取ってしまうことがあります。
悪いことを思っちゃいけないと思っても、中から押し上げて出てくる。憎んではいけないと思っても、憎らしい想いが出てくる。妬んではいけないと思っても、妬んでしまう。
宗教をやる人は、人を愛さないといけないことはわかっています。愛さなくてはいけないと思っても、それに反する愛に欠けた想いが出てくる。それに苦しむわけです。
これまでの宗教というのは、悪いことを思ってしまう自分を掴まえて、自分は駄目な人間だ、悪い人間だと責めてしまいがちでした。私はこんなに長年信仰しているのに、人を悪く思ってしまう。妬んでしまう。恐れてしまう。怒ってしまう。ああ、私は至らない人間だと思って、自分をいじめてしまう癖が信仰者にはありました。
それをご覧になられて、五井先生は、これではいけないと思われて、「それは消えてゆく姿なんですよ」と赦して下さったわけです。
「人間はみんな神の子で、悪く見えるものは全て、過去世からの神様から離れた想いが、現れては消えてゆく姿で、本当のあなたではないんですよ。消えてゆくにしたがって、愛と調和に充ちた神の子の姿が現れてゆくんですよ」と赦して下さいました。
その消えてゆく姿を消して下さっているのは、守護霊様、守護神様であり、世界平和の祈りに働く救世の大光明であり、五井先生であるわけです。
自分では自分の想いをなくすことができないのだから、悲しいなら悲しいままでいいから、憎らしいなら憎らしいままでいいから、五井先生!とお呼びしたらいい。そうしたら、五井先生が、責任をもって全部浄めて下さいます。
五井先生は、「私は三助(銭湯で背中を洗い流してくれる人のこと)なんだ」と仰しゃっていました。魂についた汚れを洗い流して下さるのが五井先生です。「五井昌久という名前だけども、五井三助と名前を変えようかと思っている」とご冗談を仰しゃってましたが、三助である五井先生に、「先生、この汚れた想いを洗い流して下さい!」とお願いしたら、「あいよ」といって、洗って下さいます。
以前、怒りか何かの、ある感情の想いが強く出てきて、いくら五井先生と思ってもどうにもならなかった、と言っておられた人がいました。どうにもならなかったといっても、その時の感情が、消え去らないで、今もズーッと続いているのかというと、そんなことはありません。おそらく、五井先生と思っても、その感情の想いがすぐに鎮まらなかった(消えなかった)から、どうにもならなかったと思われたのでしょう。
すぐ想いが鎮まらないというのは、それだけ、色んな想いが、時間をかけてたくさん浄められているのかもしれません。自分の中にある想いと波長の合う、縁者や幽界の波がかかってきて、ということもあるでしょう。
人間というのは、せっかちなものです。「お祈りしているのに、まだこの想いが消えない、一体いつ消えるのか」。そんな余計なことを思う必要はないと思います。私の体験から言っても、想いというのは、気が付いたら、知らない間に、いつのまにか消え去っているものです。私たちが為すべきことは、どんな想いが出ようが出まいが、五井先生を思い、平和の祈りの中に入り続けることです。
洗濯機に汚れた服を入れたら、後はスイッチを押して、機械に洗濯を任せます。一定の時間が過ぎれば、自動的に服はきれいになっています。それを、まだ運転が終わっていないのに、途中で、まだ服の汚れは取れていないのかと中を覗き込んで気にしている人はいないでしょう。服の洗濯を洗濯機に任せるのと同じように、心の洗濯は神様にお任せすることです。
随想「青空の心」
随想「青空の心」(『失望のない人生』収録)で、五井先生はこう書かれています。
「枝繁き松の天なる空澄めり潮鳴りとうとうと我が胸にする
かつてこのような歌を作ったが、澄みきった天を眺めていると、人間はこの青空のように、いつも澄んでいなければいけない、とつくづく思うのである。
このように澄みきった清らかな大らかな、人間の本心を覆うものは何かというと、感情想念である。この感情想念を巧みに制御出来れば、人間は素晴しい神の子の姿を自ずとそこに現わすのである。
悲しみ、苦しみ、喜び、痛み、そういう喜怒哀楽を感情想念といい、この感情想念がこの三界、業生の世界の運命を作っているのである。これを業想念というのである。」
喜びというのは、法悦のような本心からくる深いものもありますが、お金が儲かったから嬉しいといった、浅いものもあります。普通の人は、自分にとって都合の良いことがあれば喜び、悪いことがあれば悲しんで、いつも想いが揺れ動き、一喜一憂しながら生きています。それでは、感情想念に振り回された人生になってしまいます。五井先生は続けて、こう書いておられます。
「この業想念を超えるためにはどうしたらいいか。感情想念をもったままでいいから、祈りに入ってしまうのである。じーっと本心の中に想いを入れてゆくのである。いわゆる鎮魂してゆくと、本心の奥にある神のみ心がずーっと表面の心に伝わってくる。それが祈りなのである。
祈りの中で一番いいことは、世界人類が平和でありますように、という深い大きい愛の心が凝縮した言葉である。
毎日毎日、怒りの想い、妬みの想い、淋しい悲しい想いなどがくるその時に、神さま有難うございます、守護霊さま守護神さま有難うございます、世界人類が平和でありますように、とひたむきに世界平和の祈りの中に入ってゆけばいいのである。
法然、親鸞が念仏一辺倒で、なんでもかでもすべてを南無阿弥陀仏の中に入れたと同じように、すべての感情想念を、世界人類が平和でありますように、守護霊さま守護神さま有難うございます、と感謝と祈りの中へ入れきってしまうのである。
そうするともろもろの感情想念は次第に薄らぎ光に昇華して、青空のように澄みきった心になるのである。」
私も心の中がもやもやしている時、統一テープをかけて座って統一すると、五井先生の光の中で感情想念が薄らいでゆき、青空のように心が澄んでくることをよく体験します。
いや、私は統一している時、かえってしんどくなる、雑念が出てきて、少しもすっきりとしない、という人もいるかもしれません。雑念がたくさん出てくるから、良くない統一かというと、そうではありません。雑念が一杯出ている時に、五井先生と深く思って、かえって、普段よりも深い統一状態に入っていることもあるそうです。
雑念と統一している自分は別です。雑念は、神様の光によって、潜在意識の底に溜まっていた汚れた波が、外に出されていっているので、かまわず、消えてゆく姿と思って、祈りの中に入り続けていればよいわけです。
五井先生は、「悪い想いが出るたびに祈りが深まっていく」と仰しゃっていました。私たちは、悪い想いが出れば、それを縁として、一生懸命平和の祈りを祈って、神様の御心の中に入っていこうとしますので、より祈りが深まっていくことになります。
心の天気が、晴れであろうと、曇りであろうと、雨であろうと、五井先生をお呼びして、世界平和の祈りを祈っていくということが、一番大事です。祈り続けてゆけば、祈りの中であらゆる感情想念は光に昇華し、青空のように澄みきったすがすがしい本心の響きが、限りなく現れてまいります。そして世界平和の祈りの中に、光り輝いている本心の自己を、はっきりと見出していくことになります。
(風韻誌2019年1月号)