平和の祈りの中に入って生活する  尾崎晃久

平和の祈りの中に入って生活する  尾崎晃久

 いいことの最大なもの
 この世の中に現れてくる様々な出来事や環境は、過去世の因縁の現れては消えてゆく姿であると聞きますと、悪い事柄が消えていくのだと普通は思います。
 しかし、過去世の善因縁によって現れてきている良い立場や生活環境も、今その人が良い生き方をしていなければ、やがては崩れ去り消えていってしまいます。
 講話集『責めてはいけません』に収録されている「感情の純化」というご法話で、五井先生はこのように仰しゃっておられます。
 「〝私は去年は随分人を助けた、いいことばかりした。今年はのんびりして悪いことをしたっていいだろう〟(笑)そうなってしまう。徳を積んであるからいいだろう、そんなことはない。徳はどんどん減ってゆくんだ。だからこの世の中で家庭においても無事に暮している、お金も随分ある、地位もある、子供もいい、何もいうことがないという人がありますね。そういう生活は過去世に積んであった徳がそこにあらわれてくるわけになる。現われて来たものはそのまま減るんだから、善業も悪業もどんどん減ってゆくわけです。だからいいことをそのままつづけていかない限り、どんどん減って最後にはバチャンといってしまうんです。あるいは霊界へ行ってやられるんですね。
自分がいかにいい職にあろうと、いい地位にあろうと、家庭が円満であろうと、やっぱりいいことをつづけなければならない。」
 銀行に、たくさん預金があるとします。そのお金を定期的に銀行から下ろし、遊んで暮らして新たに貯金しなければ、しまいには口座にあるお金がなくなってしまい、生活が立ちいかなくなってしまいます。
 それと同じで、過去世から積んできた徳(善因)のおかげで、現在は良い生活ができていても、今生では良いことを何もしない。かえって人より良い境遇にあることで、高慢な想いになって、人のためにならない生き方をしていたのでは、過去世の貯金、徳がなくなってしまった時、惨めなことになってしまいます。この世では最後まで上手いことやれたとしても、あの世や来生で、苦しい生活をしなければいけなくなります。
 ですから、今、良い境遇にある人は、過去世の善因縁と、守護の神霊によくよく感謝して、今ある環境の中で、良いことをしていかなければいけません。社会的地位やお金があるなら、その地位や金銭を生かして、人類社会に大きく貢献することができます。
 中には、格別地位や富があるわけではないが、生活に困ることはなく、家庭も円満で、ほどほどに良い暮らしをして、大きな不幸もないので幸福だと実感している人もいるでしょう。良いことと言っても、具体的に何をしたらよいかわからない。それほど交友関係も広くないし、どうやって人のためになることをしたらいいのか、と思う人もいるかもしれません。
 五井先生は、「いいことの最大なものは何かというと、神様に感謝することです。神様有難うございます。いいかえるなら、
 世界人類が平和でありますように
 日本が平和でありますように
 私達の天命が完うされますように
 守護霊さん守護神さん
 神様有難うございます
という想いでいつもいれば、それはそのまま光を放っているんだから、そのまま徳を積んでいることになっているんです。いい地位ならいい地位のままで、家庭が円満なら円満のままで、そのままズーとゆくわけです」と、誰もが易しく無理なく行える良い行いを教えて下さっています。
 ただ、神様有難うございます、と感謝しているだけでも良いですが、その神様の御心は何かと言うと、神様は子供である人類がみんな仲良くすることを願っていらっしゃいます。人類よ平和であれ、世界人類が平和でありますように、というのが神様の御心であるわけです。
 大神様の御心でもあるし、自分を守ってくれている守護霊様、守護神様の御心でもあるし、人類を救おうとして働いているイエスやお釈迦様や老子様など、あらゆる聖者・神々様の御心でもあります。自然界を司る神々様も、人類が平和であること(神の子の調和した姿を現すこと)を願って、人間に自然の様々な恵みを与えて下さっているわけです。
 ですから、神様への感謝と共に、その御心である、世界人類が平和でありますように、という祈り言葉の中に入ればいいわけです。
 日々湧いてくる、不安の想い、怒りの想い、妬みの想い、不平不満の想いなどを、過去世からの神様から離れていた想いが、現れて消えてゆくんだと思って、平和の祈りの中に入れば、祈りに働く救世の大光明が、みんなきれいに浄めて下さいます。それと同時に、周囲に地球界に光を放射して不調和な波を消し去り、世界を平和にする働きをしているのですから、これ以上ない人類愛の行いをしている、徳を積んでいることになります。そのような、神の御心に適った生き方をしている人の未来が悪くなるはずがありません。
 いい地位ならいい地位のままでずっとゆく、というのは単にこの世のことだけでなく、肉体界を去った後、霊界の高い世界に行って、光り輝いた幸福な生活ができる、ということだと思います。
 この世にいる間は、神様に感謝して、平和の祈りをしていても、途中で、これまでの地位や富を失う人もあるかもしれませんが、それも過去世からの業の消えてゆく姿で、その体験を通して本心が開かれ、後々かえって良いことになるのは間違いありません。平和の祈りを祈り続けることで、永遠に消えることのない、真の幸福を得ることができます。

 いつでも神様の御心の中に入る
 普段は、神様に感謝していない信仰心のない人が、困った時、苦境に立たされた時だけ、神様に助けを求めることを「困った時の神頼み」と言います。裏を返せば、困ったことがないと神様を求める気持ちにならない、という人が多いわけです。
 五井先生は、「大概の場合は何も困ったことがないで、信仰をすすめられると『いいえ、うちはお蔭さまで何も困ったことがありませんで、何も神様にすがることがないんでございますの』とこういうことになる。(笑)神様にすがることがないって、お前さん自分の生命はどこから来ているの。生命は神様から来ているんですよ。神様がパッとはなせば生命はなくなってしまうんだからね。神様の中から来ている生命なのに、一番肝心なものを忘れてやしませんか(笑)っていうんですよ。それを神様の生命を忘れて、私は神様のご厄介になっていない、というのです。まあぬけぬけとよくいえたもんだと思う。(笑)神様にご厄介になっていないものが、この世の中に虫一匹だってあるものか。全部神様から来ている。その神様に何もお願いすることがございません、というのをみると、私はこの人はかわいそうだなと思う」とお話しされています。
 本当に、その通りだなぁ!と深くうなずかされました。人間は誰しも、日々、神様から生命を頂いて生きています。心臓や肺臓も神様の力によって動かされています。生きるために必要な諸要素、太陽の光、空気、水、食物、植物、鉱物等を、神様から頂いています。
 そして、守護霊様、守護神様という慈愛なる神様が、四六時中、付きっきりで守って下さって、危ないところを助けて下さっているから、日々平穏無事に過ごすことができているわけです。
 一年三百六十五日、夜寝ている間も、いつも神様のご厄介になっているわけです。そのことに対して、「神様有難うございます」といくら感謝してもしきれるものではありませんが、「私は幸いにして、今何も困ったことがありませんから、神様に助けて頂く必要がありません」と浅はかに思ってしまうわけです。
 「病気にあったり災難にあったり、いろんなことがあった人の方が、すがる力が強いからわかりますね。その方が幸いかも知れない。しかし何もなくて、家庭も円満で地位もあってお金もあって、しかも神様につながっている人はなおいいと思う。悪いことなしでそのままいっちゃうからね」。確かに、その通りです。
 大抵、病気になったり、不幸、災難にあったりしたことがきっかけで、何かにすがろう、神様を求めようという気持ちが湧いてきて、宗教入りすることが多いわけです。
 その奥には、守護霊様、守護神様のお計らいがあるものと思います。このままだと、いつまでたっても本心に目覚めないから、ちょっと過去世からの業を表面に現して、病気にさせて、神様を求める気持ちを起こさせよう、と守護の神霊は思われるのかもしれません。
 最初は、神様に救いを求める気持ちというのも、現象的に良くなりさえすれば良い、貧乏や病気が直りさえすればそれで良いんだ、というご利益信心かもしれません。しかし、現世利益を求める想いからであっても、守護の神霊の導きによって、世界平和の祈りのような素晴らしい教えに繋がると、次第に内なる神性を限りなく現していく、という深い信仰へ導かれて参ります。
 最初は自分が救われたい一心で、五井先生に縋って、平和の祈りを祈っているうちに、「私は神様の分け命であって、この世の不幸や災難は、過去世からの神様から離れていた想念が、今、縁に触れて現れて消えてゆくんだな。消えてゆくに従って、私の内なる生命の光がますます輝きだすんだな。守護霊様、守護神様は、なるだけ痛み少ない軽い形で、過去世の業を消して下さっているんだな。有難うございます」と感謝できるようになってきます。心の中が安心立命して参ります。
 世界平和の祈りを祈り続ける中で、肉体の小さな自分のことにだけ、想いが把われきっていたのが、いつの間にか広い心になって、人類みんなの幸福を思える人間になってゆきます。魂が立派になっていくと同時に、現象的にも良くなっていくのが、五井先生のみ教えです。
 ですから、これまでの歩みを振り返り、「あの病気があったから、あの不幸があったから、私は宗教に救いを求める気持ちになって、平和の祈りに繋がることができた。苦難と思えることがあったのが、かえって幸いだった」と思う人は大勢いらっしゃると思います。
 また、五井先生が仰しゃるように、あまり大きな不幸がなくて、家庭も円満で、健康で、生活も裕福でいながら、真剣に真理の道を求め、スッと深い信仰に入ることができ、日々、神の愛に感謝し、自然に愛行為を行じている人は、これは本当に幸福であろうと思います。
 私も、何か大きな問題が自分や身の回りに起きている時は、真剣に五井先生をお呼びして深く祈って、何もない平穏な時は、ちょっと気がゆるむではないですが、惰性の波に流されてしまっていることも多々あります。何かある時は、誰しも自然に神様を強く思わずにはいられませんが、そうでない時も、祈りを通して、神様の御心奥深く入って生活していくことが大事だと思います。

 五井先生は、ご法話の最後を「だからいつの日でもどんなことがあっても、心を謙虚にして神様の中に入って、神様のみ心としてこの世に出ていかなければだめですよね。そのためには毎日日常茶飯事の間で、ご飯を食べる前も世界平和、食べ終っても世界平和。ねる前も世界平和、起きる時も世界平和。電車の中でも世界平和。歩きながらも世界人類が平和でありますように、というように、いつでも世界平和の祈りの中に、祈り言を通して神のみ心の中にスッポリと入っていることが大事なんです。そして神様のみ心の中から改めて行動してゆく。いい想いも悪い想いも一度すべて世界平和の祈りで神様の中にお還えしして、神様の方から頂き直してゆく時、感情というものは純化され、その行動は愛になるのです」と締めくくっておられました。
 悪い想いだけでなく、いい想いもお還しする、というところは大事なポイントです。
 このご法話で、平和の祈りを祈ると、感情が純化される(想いが浄らかになる)ということを、種々な例をあげて説明されていました。
 例えば、世の中の困っている人々を見て、かわいそうだ、なんとかして助けてやりたいと思う。それは愛情で、良い想いです。しかし、その愛情が行き過ぎますと、困っている人々を助けるための社会事業なんかに没頭してしまって、自分の家庭を全然かえりみないで、家庭が不調和になってしまうケースがよくあります。
 本当は、家族にも優しくしたり、面倒をみたりしなければいけないのに、家庭人としての責務は全く果たさないで、よその人にばかり愛情を注いで助けようとする。自分自身は、人を助けることに喜びを感じているのですが、家族は反感を持ち、家庭が壊れてしまいます。それでは片方には良くて片方には悪い、偏った感情になってしまうわけです。
 ですから、人を助けたいといった良い想いも、平和の祈りの中にお返しして、神様の御心の中に深く入ってゆきますと、今度は、家族にも、世の中の人のためにも、どちらにもなるというような、バランスの取れた生き方、行動が自然にできるようになってくるわけです。偏った感情ではなく、神の御心と一つになった純化された愛情になるわけです。
 こちらが良かれと思って、親切心でしてあげたことが、相手からはおせっかいだと思われて、嫌がられることもあります。
 「あの人のお世話をしてあげよう、手伝ってあげよう」という気持ちに駆られても、その想いをスッと祈りの中に入れて、神様の御心の中に戻る習慣がつきますと、相手がそれを望んでいない時は、その気持ちを察することができるようになってきます。本当に必要な時だけ、行動するようになってくるわけです。
 良い想いもお返しして、神様の御心の中から行動していくというのは、中々いっぺんにいくものではなく、私も、これまで何度も失敗してきましたが、失敗も、これからは気をつけようと学ぶことができる良い経験であります。
 世界人類が平和でありますように、と祈りながら日常の生活を送っていますと、想いがいつも祈りの中に入って浄められていることになりますので、神の御心のままに行動していくことが、少しずつできてくると思います。焦らず、まずたゆまず、一歩一歩祈りの道を歩んでいきたいと思っています。

 参考文献
『責めてはいけません』五井昌久著 白光出版

(風韻誌2018年3月号)