赦すというのは消えてゆく姿ということ 尾崎晃久

  ―2022年9月4日法話会より―

 人を赦すということ
 今日は、昭和三十八年七月二十九日の五井先生のご法話「赦すということは、消えてゆく姿ということ」を聞いて頂きました。
 教義「人間と真実の生き方」の中で、「自分を赦し人を赦し」という言葉が出てきますが、この「赦す」ということがどういうことか、案外、よくわかっていなかったりします。どの宗教でも愛と赦しを説くと思いますが、他の宗教で言っているのと、五井先生が説かれているのとは何か違いがあるのでしょうか?
 よく、「人をいつまでも憎んでいないで、赦しなさい」と言いますね。自然に、すっと赦せたらいいですけども、中々赦せないことがあります。人のことをずっと憎み続けるのも苦しい。かと言って、その人を赦すこともできない。無理に赦そうとすると、余計に自分が苦しくなってしまうことがありますね。
 また、自分が相手からひどいことをされて、相手が、そのことを深く反省して、「悪かった、申し訳なかった」と赦しを請うてきているなら、まだ赦せるかもしれません。それでも、あまりひどいことをされた場合は、中々赦せないこともあります。まして、相手が、そのことを、悪いともなんとも思っていない、少しも反省しないで平然としているのであれば、これは憎んでも憎み切れない野郎だ!ということになりますね。
 五井先生は、「赦すということは、煎じ詰めて言えば、消えてゆく姿ということなんです。消えてゆく姿だなぁという時には赦しているんです」と仰しゃっていました。
 「罪を憎んで人を憎まず、という有名な言葉がありますね。犯した罪——例えば人殺しをした、泥棒をした、そのことはいいことはありませんよ。それは赦せないんですよ。悪いことをして、その悪いことは赦せないですよ。普通で言えば。あんな悪いことをした奴を赦せるか。赦せませんですよ。業としては赦せない。
 しかし、人間の本体というのは、神の子なんだから、本当は赦すも赦さないもないわけです。やってるのは、人類の業がその人に結集して、一人なら一人の人、あるいは、こっちの人に自然に現れてくるわけです。消えてゆく姿として現れてくるわけです。
 それを、普通の場合は、あいつは悪い奴だ。あんな悪いことしやがって、あんなのは憎んでも憎み足りない、こう思うわけです。
 ところが、私達の考えでは、そうは言わない。ああ、消えてゆく姿で、あれは現れて、ああ気の毒だなぁ。あんな消えてゆく姿出さなきゃならない、あの人は気の毒だったな。どうぞ一日も早く、そういうものが消えますように、あの人の本心が現れますように、というような祈りをするわけです。そうすると、それは赦していることになるわけです。」
 ですから、普通の考えの赦しとは少し違うんですね。世間一般の考え方だと、本心と業の区別というのが、なされていませんからね。人間の本心は光り輝いた神の子で、業は消えてゆく姿という真理を、普通は知らないわけです。業の方を、本当のその人だと思って、掴んでいたら、人を赦すことは中々できません。
 だから、ある人が悪いこと、非道なことをしたというのであれば、これは、その行いを赦せませんし、また、その人自身も赦せない。なんて憎らしい奴だ、となっちゃいます。
 ところが私達の場合は、人殺しなら人殺しをした、その行為自体はやっぱり赦せませんね。ああ、なんて馬鹿なことをするんだろう、こういう行いがあってはいけないと思います。プーチンが、ウクライナに侵攻して、大勢の人を犠牲にしている。その行い自体は、絶対に赦せません。このような悪行為、残虐な行為はあってはならないと強く思いますね。
 よく新聞とかで、このような悪や不正義は絶対に赦してはならない、と書いてあります。それは、その通りなんです。その悪行為を赦すこと、容認することはできません。そこまでは、私達も、世間一般の考えも同じなんです。その後が違うんです。
 だけども、その人の本心が、そういう悪い行いをしたんではないんだ。その人の本心は光り輝いた神の分霊であって、そういう真理を知らない、過去からの神様から離れたカルマの想いが、そういう不調和な行為となって現れてきているんだ。
 ああ、この人も神より来た生命なのに、本心が業に曇らされて、こんな愚かなことをしてしまっている。ああ、気の毒になぁ、どうか、この世の中から、こういう不調和な姿が速やかに消え去って、あの人の本心が現れますように、世界人類が平和でありますように、こう祈ることが、人を赦したことになるんですね。
 五井先生は「人類の業がその人に結集して、一人なら一人の人に自然に現れてくるわけです」という物の見方を私達に教えて下さっています。
 ウクライナの戦争でも、プーチン一人が始めた戦争だって言われていますけれども、戦争を引き起こす要因となった、彼の強い被害者意識とか、偏った歴史観とか、西欧に対する敵対心というのは、彼一人のものではなく、同じような考え、想いを持った人は、他にもたくさんいるわけです。幽界には、そういう業の想いが一杯渦巻いているわけです。
 そういう国家や人類の、過去から積もり積もった業が、プーチンならプーチンという一人の人物にかかってきて、ああいう不調和として出てくるわけです。
 ですから、そういう人類の業が一日も早く消え去って、プーチンをはじめ、みんなが本当に、本心の神の子の愛と調和に充ちた姿を現しますようにと、祈るんですね。
 赦すって、あからさまな侵略戦争を起こしていること自体を赦すんじゃないです。それは間違ったこと、してはいけないことなんだから、それを赦しては、容認してはだめです。どうか、こういう過てる行為、過去からの業が早く消え去っていきますようにと、真剣に祈って、神様の慈愛の光を送って、その人や人類の業が消え、本心が開くための手助けをすることが、愛と赦しの行いになります。

 自分を赦すとは
 五井先生は「それから自分の場合もそうです。自分を赦しというのがありますね。自分がしまったことをします。ああ、しまった、こんなことをして。ああ、悪かった、私はなんて悪い奴だろう、と自分を責めていてもしょうがないでしょう。人間というのは神の子、自分も神の子だし、人も神の子なんです。神の子の自分を責めてもいけない。神の子である自分を責めても、それは神様を冒涜ぼうとくすることになる。
 そうすると何を責めるか、責めるものは罪なわけですね。過ちを犯した人の、過ちの行い。自分が過ちをした、過ちの行い、それを責めるべきでしょう。ところがやっちゃったのは責めても仕方がないでしょう。責めても何にもなんないわけ。責めるというマイナスだけが自分に残るわけ」とお話しになられていました。
 教義の中で、人を赦しの前に、自分を赦しとあります。昔は、宗教や修養では、人を赦しなさい、ということは、強調したんですけれども、自分を赦すということはあんまり言わなかったんですね。
 なぜ、五井先生が、自分を赦すという言葉を入れたかというと、宗教をやっているような、善い人ほど、自分を責め裁く傾向が強いわけです。間違ったことをして反省するのはいいのですけれども、「ああ私はこんなことをしてしまった。私は悪い人間だ」といって、いつまでも自分のやったことに把われて、自分を責め裁いてしまうわけです。
 自分の本心は、光り輝いた神の子ですから、神の子である自分を責めるのは、神さまを責める、冒涜することになってしまいます。神の子の自分は少しも悪くない。悪いのは、過った行いです。しかし、もうやってしまったことをいくら責めても仕方がありません。責めることで、自分の心を痛め、暗くさせるだけです。
 そこで、五井先生は、自分を赦し、という言葉を、教義の中に入れたんですね。自分のやった過ちも、消えてゆく姿だなぁと思って、平和の祈りの中に入れてしまえば、自分を赦したことになるわけです。
 続けて「あいつは悪い奴だ、あんな奴は殺しちゃえ、という時には、自分に憎しみの心が起こるから、憎しみというのは、神から離れたものだから、自分を痛めているわけです。
 どんな悪いことを相手がしようと、あんにゃろう、憎らしい奴だ、殺しちゃおう、という時には、自分の想いの中から鬼の心(業)が出ているわけですね。そうすると、自分で自分を痛めているわけです。もうやっちゃった、仕方のないことを責めて、仕方のないことに、自分が……業に加勢しているわけだ。で、自分を痛めているわけ。憎み心を出して。
 それでは、いつまでたっても人類は良くならないから、犯した罪は、ああ、あれは消えてゆく姿だな、あの人そのものがやったんじゃなくて、本心が現れるために消えてゆく姿がそこに現れて、人類の業が一人の人間に現れ消えてゆく姿なんだ。ああ、あの人の本心が早く開きますように、どうか人類の業が速やかに消えまして、みんなの心が開きますように、というように祈りますとね、世界平和の祈りに入れてしまえば、赦したことになるんです。
 それは、人にも自分にも、それが言えるわけです。自分のやったものが、ああ、これはいけなかったな、消えてゆく姿として現れたんだから、どうか、再び、こういう消えてゆく姿がありませんように、神さまお赦しください、でいいから、それを言って世界人類が平和でありますように、って入れちゃうわけです。そうすると、自分の消えてゆく姿の業が、そこで平和の祈りの大光明の中で消えていくわけです。また人の業が平和の祈りの大光明の中で消えていくわけなんですよ。だから消えてゆく姿ということが赦すということなんです。
 自分を赦し、人を赦しというのは、ああ、これは消えてゆく姿なんだな、本心は神と一体なんだな、みんな消えてゆく姿なんだな、一日も早く天命が完うしますように、自分の生命が、本心が開きますように、世界人類が平和でありますように、守護霊さん、守護神さん有難うございます。こういうような想いで、祈りの中に入ってしまえば、即座に赦したことになるわけですよ」とわかりやすく説明されていました。
 宗教をやっている人は、それほどたいした悪いことをしたわけでもないのに、些細ささいなことで、ああ、私はこんなことをしたと言って、自分を責めていることが良くあります。
 逆に、本当に悪い人間というのは、あまり自分を責め裁いたりしないんですね。神様の御心から遠く離れているような、本当の悪人程、悪いことを平気でやって、そのことを、全然気にしない。人をおとしいれようが、自分のやったことのせいで、人がどんなに苦しんでいようが、そんなことは知ったことではない、と思っている。
 その反対に、神様の御心に近いような、善い人ほど、ちょっとでも、人の心を痛めるような言動をしてしまったりすると、「ああ、私は、あんなこといって、あの人を傷つけてしまった。私がしたことで、あの人に嫌な想いをさせてしまった。ああ、私は悪い人間だ」と言って、いちいち責めてしまう。
そうやって、いつも、自分のやった過ちに把われて、自分を責めてばかりいたら、心が明るくおおらかになって来ない、生命が生き生きとしてきませんね。
 神さまの御心から遠く離れた悪人が、何やっても、気にしないで、ふてぶてしく堂々と生きていて、良い人ほど、こんなことをして私はなんて悪い人間だろうといって、自分をいじめて、小さく縮こまって生きている。こんな馬鹿馬鹿しいことはないですよね。
 そこで、五井先生は、自分を赦すということを教えの前面に出されたわけです。
 「悪いことをしてしまった。ああいけなかった。こういうことは、もうしないように、十分気をつけましょう」と思って、いつまでも、その過ちを掴んでないで、「ああ、これは、業の消えてゆく姿で、本当の私ではないんだな。本当の私、本心というのは、神と一体で光り輝いたものなんだな。どうか、私の本心がますます開かれますように、世界人類が平和でありますように」と祈ってしまう。そうすれば、業が光の中で消えていって、自分を赦したことになるわけです。
 本心の方は、赦すも赦さないもない、最初から太陽のように、光明燦然さんぜんとして輝いている、神様の生命ですよね。

 憎しみの想いも消えてゆく姿に
 五井先生は「憎しみというのは、神から離れたものだから、自分を痛めているわけです」と話されています。
 昔、中学の時の教師が、「ある本に、人間は、一生の間で、殺してやりたいと思う人が三人はいるものだと書いてあった」と言っていました。人にしいたげられたりしたら、殺してやりたいほど、憎むことだってあるかもしれない。それが、何十年前のことでも、ずーっと根に持って、恨みを抱き続けていることがありますね。
 激しく憎むというのは、やっぱり、自分や他人の生命を痛めつけてしまうわけです。
 だけども、人をいつまでも憎んでないで、赦しなさいと教わっても、やっぱり、私は、人を憎んでしまう、人を赦すことが出来ない。憎み続けるのも苦しいし、かといって赦すこともできなくて苦しい。長年信仰していても、私は、いつまでも、神様の御心に反する悪いことばかり思ってしまう、私は駄目な悪い人間だ、と思ってしまったりするわけですね。
 そこで、やっぱり消えてゆく姿で平和の祈りなんですよね。その憎らしいという想いも、現れては消えてゆく姿なんですね。
 これは、私の本心が憎んでいるんではないんだ、私の本心は仏の心そのもので、誰も憎んでなどいない、愛と調和に充ちているんだ、潜在意識に蓄積されていた、過去からの憎しみの想いが、今縁に触れて、消えてゆく為に現れてきているので、消えていくにしたがって、より、私の本心の仏さまが出てくるんだな、より愛深い自分になっていくんだな、守護霊様、守護神様ありがとうございます、世界人類が平和でありますように、と祈る。
 自分ではなくせないんだから、「どうか、五井先生、この憎しみの想いを消して下さいませ」と思って、五井先生の中に、みんなお返ししてしまうのですね。そのように祈り続けていけば、時間はかかるかもしれないけれども、いつのまにか、恨みつらみの想いが薄れて、消えていってしまいます。
相手にさんざん痛めつけられたのも、消えてゆく姿で、あの人そのものがやったんじゃないんだ。人類の業が、あの人を通して現れて消えてゆく姿だったんだな、どうか、人類の業が速やかに消え去って、みんなの本心が開かれますように、世界人類が平和でありますように、こう祈っていけばいいのですね。
 「あの人を憎んではいけない、赦さないといけない」と息張らなくてもいいので、現れてくる想いを、すべて消えてゆく姿と思って、平和の祈りを祈り続けていたら、いつのまにか、知らない間に、相手への憎しみの想いがなくなっていることに気づいたりします。
 中には、「五井先生は、自分を赦し人を赦しと説いておられるけれども、私は、自分や人を責め裁く想いばかり出てくる。私は五井先生の説かれていることを実行できない」と嘆いている人もいるかもしれませんが、そうじゃないんですね。
 自分や人の過ちも、それを責める想いも、共に消えてゆく姿と思って、平和の祈りを祈っていることが、そのまま自分を赦し人を赦し、という教義を実践していることになりますから、どうぞご安心ください。

 赦し合いの生活
 五井先生は「人を赦すことはわかるけれども、自分を赦していいのか。自分が悪いことをしても赦していいのか、そんな安易な考え方では、とわけもわからないで文句を言ってくる人があるんですよ。人間が神から来ているんだということがわからないと赦しができないんです。赦すというと、いかにも、いいよいいよ、俺は赦してやる、と自分を一段上に置いて、赦すような考えでしょう。自分の場合には上に置けないもんね。自分を赦しの場合は、自分をどこに置くか。業の自分がなくなることが赦したことになるんです。そうすると、どこへなくすかというと、消えてゆく姿で世界平和の祈りの中に投げ出してしまえば、赦したことになりますでしょう。業を掴んでいることが赦さないことなんです。自分の業を掴んでいれば自分を赦さない。人の業を掴んでいれば人を赦さない。それをやっていると、いつまでたっても世界が平和にならない。赦しあいの世界というのは、業をそのまま見過ごすわけではなくて、消えてゆく姿で、神様の中で消してもらっちゃう。そういう運動が赦し合いの生活なんですね。ただ、悪いことをしたのでも、いいよいいよ、それは駄目なんです」と、私たちが思い違いをしやすいポイントについてお話しになられていました。
 人を赦さないといけないなんて聞くと、うっかりすると間違っちゃって、人がどんな悪いことをしても、いいよいいよと言って、赦そうとすることがあります。
 子供が、人の迷惑になるような悪いことをしているのを見ても、赦さなきゃいけないと思って、見て見ないふりをして、全然叱らない、注意しないのがいいのか、というと、そうじゃないんですね。それは、その子の業を、そのまま見過ごして、放置しているということですね。やっぱり悪いことは悪いことなんだから、祈り心で、「それは悪いことなのよ、こういうことはしてはいけないのよ」と言って聞かせることが大切でしょう。その子の業が消えて、本心が開かれていくように祈ってあげることが大切です。
 国家相手になると、「それは悪いことなのよ」と言ったって、聞きはしませんから、消えてゆく姿と思って平和の祈りを祈って、救世の大光明に消して頂くよりほかありません。
 「悪いことをして、その悪い行為をそのままにしておくというのは、悪を認めていることになるわけです。それだと、ちっとも消えていかないんです」と五井先生は仰しゃっておられました。
 自分の場合でも、人をぶん殴っておいて、反省もしないで、「ああ、これで俺の業が消えていったんだ。あいつも俺にぶん殴られる因縁があったんだ。お互いの因縁が消えていって良かった良かった」なんてやっていたのでは、相手はたまったものではありません。
 悪いことをしてもいいんだ、これぐらい赦されるという考えでは、いつまでたっても、その人は善くならないし、業は消えていきません。やっぱり自分が悪いことをしてしまったら、いけなかったなと反省するのは当たり前ですね。
 しかし、その過ちをいつまでも掴んでいたら、自分を責め裁くことになってしまうし、また、人の過ちをいつまでも掴んでいたら、人を憎むことになってしまいます。
 一般に、正義心が強い人ほど、悪を憎む気持ちが強く湧いてくると思います。業を本物と思っていつまでも掴んでいるから、悪いことをしている人を憎んでしまうわけですね。人間は、神から来た生命、神の子であって、過ちと見えるものは、みな現れては消えてゆく姿であるという真理がわからないと、本当の赦しが出来ないんですね。
 「業を掴んでいることが赦さないことなんです。自分の業を掴んでいれば自分を赦さない。人の業を掴んでいれば人を赦さない」ということですから、業を消えてゆく姿と思って、平和の祈りの中で、神様に消して貰うことが、赦し合いの生活になるわけです。
そういうことを実践していれば、不調和なものは、どんどん消え去っていき、自分の中からも人の中からも、本心が輝き現れてきて、世界平和が必ず実現します。
(風韻誌2022年11月号)