青年期の人間探求
私は昭和18年10月23日に、大阪府岸和田市に生を受けました。誕生後すぐに、父親の故郷であった新潟県上越市高田に疎開し、戦争が終わった昭和21年初めに、岸和田に帰ってきました。私の家庭環境はちょっと変わっていて、父は社会主義運動の闘士で、大阪の中央郵便局の労働組合の委員長をし、昭和23年ごろ、当時、郵政大臣をしていた三木武雄さん(後の総理大臣)と東京で渡りあった労働界の雄でもありました。戦前は生長の家の信仰をもっていたこともあって、私の本名(昭雄)の名付け親は、信者仲間で岸和田に住んでいた加藤さんという人(この方は戦国時代を活躍した加藤清正の子孫)です。
同居していた祖母(母方の)は、京都の出身で、江戸時代までは公家(多分下級の)の家であったこともあり、当時としては珍しく女学校を出ていました。俳句や和歌を楽しむ教養人でもあり、天文学が好きという面白い一面をもった人で、私を随分可愛がってくれました。母親は4人の子供を育てることに愛情を注いでいましたが、父親の特殊な生き方もあって、苦労をしたように思います。政治オンチであり、そうかといって宗教信仰をするのでもなく、自分を信じて頑張って生きた人でした。祖母は従姉妹(いとこ)が宮中の女官として働いていたこともあり、その方からもらった菊の御絞章のついた硯箱を大切にしていました。大相撲で昭和天皇が御出でになられた時などは、着物を着替えてテレビの前に正座をし、「天子さまが出てこられた」と言いながら、神妙な顔で見入っていたのを思い出します。社会主義者で天皇制絶対反対の父親(戦後の混乱期もあり、それまでの考えが一変した)と、公家の出身で天皇崇拝の祖母が同じ家で暮らしていたわけです。
私はと言えば、物心ついた時からひどい吃り(どもり)で、表面的には内向していきました。岸和田市というと、今では全国に知られた勇壮な「だんじり祭」として有名になりましたが、私が小さい頃は、けんか祭と言われるほど荒っぽいもので、私も6、7歳頃から祭好きになっていきました。ひどかった吃りも中学を出たあたりには随分治ったのですが、高校に入った頃から、それまでの抑圧した想いが一気に爆発し、無茶苦茶な日々を送るようになり、そのケンカ速さには、自分でも呆れるほどでした。そういう気性の激しい面とは別に、折をみては、石川啄木や土屋文明など、種々文学書を読みふけるという一面もありました。
20歳頃を過ぎると、さすがに将来の自分を考えるもので、こういうことではいけないと自分探しの旅が始まりました。高校生の頃、勉強をしなかったこともあり、独学で色々な書物を読むようになりました。小学校の高学年頃から好きだった毛沢東の本、マルクス主義に関係する本も研究し、直接共産党の大阪府本部に出向いて、色々と話し込んだこともありました。
それから22歳頃になって、急にグラフィックデザインを勉強したくなって、夜間の専門学校に行ったのですが、それまでは全く絵心(えごころ)などかけらもなかった私が、先生から専門家を目指しなさいと勧められるほど上達したわけで、たった一年半だったのに、その結果に不思議な思いがしたものです。そういう期間、仕事(書籍商)のかたわら、ベルグソンを始めとして様々な西洋哲学、心理学、ペスタロッチを始めとした教育哲学などを読んでいたのですが、23歳の半ば頃から、まるで首根っこを掴まえられているかのように、ある方向に引っ張られていったのです。それは、人間とは何かという探求で、実存哲学、東洋哲学、禅の思想に関心がいき、とことん追求していくという状況がしばらく続きました。
そうこうしているうちに、もうこれ以上進んだら精神的にバランスがとれないというようになり、全くのお手上げ状態になったのですが、その時、それまでは興味が湧かなかった親鸞の歎異抄(たんにしょう)の解説本を読む機会があり、それをきっかけに、大きな力によって自分は生かされているのだ、という奥底からの実感が生じ、苦悩の渦から解放されるという第一歩を踏み出したのです。
私は昭和18年10月23日に、大阪府岸和田市に生を受けました。誕生後すぐに、父親の故郷であった新潟県上越市高田に疎開し、戦争が終わった昭和21年初めに、岸和田に帰ってきました。私の家庭環境はちょっと変わっていて、父は社会主義運動の闘士で、大阪の中央郵便局の労働組合の委員長をし、昭和23年ごろ、当時、郵政大臣をしていた三木武雄さん(後の総理大臣)と東京で渡りあった労働界の雄でもありました。戦前は生長の家の信仰をもっていたこともあって、私の本名(昭雄)の名付け親は、信者仲間で岸和田に住んでいた加藤さんという人(この方は戦国時代を活躍した加藤清正の子孫)です。
同居していた祖母(母方の)は、京都の出身で、江戸時代までは公家(多分下級の)の家であったこともあり、当時としては珍しく女学校を出ていました。俳句や和歌を楽しむ教養人でもあり、天文学が好きという面白い一面をもった人で、私を随分可愛がってくれました。母親は4人の子供を育てることに愛情を注いでいましたが、父親の特殊な生き方もあって、苦労をしたように思います。政治オンチであり、そうかといって宗教信仰をするのでもなく、自分を信じて頑張って生きた人でした。祖母は従姉妹(いとこ)が宮中の女官として働いていたこともあり、その方からもらった菊の御絞章のついた硯箱を大切にしていました。大相撲で昭和天皇が御出でになられた時などは、着物を着替えてテレビの前に正座をし、「天子さまが出てこられた」と言いながら、神妙な顔で見入っていたのを思い出します。社会主義者で天皇制絶対反対の父親(戦後の混乱期もあり、それまでの考えが一変した)と、公家の出身で天皇崇拝の祖母が同じ家で暮らしていたわけです。
私はと言えば、物心ついた時からひどい吃り(どもり)で、表面的には内向していきました。岸和田市というと、今では全国に知られた勇壮な「だんじり祭」として有名になりましたが、私が小さい頃は、けんか祭と言われるほど荒っぽいもので、私も6、7歳頃から祭好きになっていきました。ひどかった吃りも中学を出たあたりには随分治ったのですが、高校に入った頃から、それまでの抑圧した想いが一気に爆発し、無茶苦茶な日々を送るようになり、そのケンカ速さには、自分でも呆れるほどでした。そういう気性の激しい面とは別に、折をみては、石川啄木や土屋文明など、種々文学書を読みふけるという一面もありました。
20歳頃を過ぎると、さすがに将来の自分を考えるもので、こういうことではいけないと自分探しの旅が始まりました。高校生の頃、勉強をしなかったこともあり、独学で色々な書物を読むようになりました。小学校の高学年頃から好きだった毛沢東の本、マルクス主義に関係する本も研究し、直接共産党の大阪府本部に出向いて、色々と話し込んだこともありました。
それから22歳頃になって、急にグラフィックデザインを勉強したくなって、夜間の専門学校に行ったのですが、それまでは全く絵心(えごころ)などかけらもなかった私が、先生から専門家を目指しなさいと勧められるほど上達したわけで、たった一年半だったのに、その結果に不思議な思いがしたものです。そういう期間、仕事(書籍商)のかたわら、ベルグソンを始めとして様々な西洋哲学、心理学、ペスタロッチを始めとした教育哲学などを読んでいたのですが、23歳の半ば頃から、まるで首根っこを掴まえられているかのように、ある方向に引っ張られていったのです。それは、人間とは何かという探求で、実存哲学、東洋哲学、禅の思想に関心がいき、とことん追求していくという状況がしばらく続きました。
そうこうしているうちに、もうこれ以上進んだら精神的にバランスがとれないというようになり、全くのお手上げ状態になったのですが、その時、それまでは興味が湧かなかった親鸞の歎異抄(たんにしょう)の解説本を読む機会があり、それをきっかけに、大きな力によって自分は生かされているのだ、という奥底からの実感が生じ、苦悩の渦から解放されるという第一歩を踏み出したのです。