愛情の現れとしての心配 尾崎晃久

  ―2024年2月11日、法話会より―

 愛情で心配する顔を見せる
 今、昭和四十九年の「神さまの命が自分である」という五井先生のご法話を聴いて頂きました。後半で「何にも、心配もしない人ばっかりだったら面白くないですね。話がなくなっちゃう。『お暑うございます』『暑くてもなんでもないだろ、そんなものは!たいしたことない』『台風が来て』『そんなものなんでもないだろ!』お互いに、そんなこと言ってたら面白くもおかしくもない。可愛らしくないです」というお話をされていましたね。
 「私だって、心配したり苦労したように見せるんですよ、年中。戸締りしたかい、鍵は厳重にしなさい、一カ所じゃなくて三カ所ぐらいって教えるわけ(笑)。当たり前に心配苦労するわけです。それでないとかわいくないですよね。相談に来たって、『実は、うちの妻が今、お腹が痛い、痛いって泣いてます』と電話がかかってくる。『そんなの心配ないだろ!』これだけじゃ、にべもない。『ああ、そう大変ね。それは痛いだろう、苦しいだろう』祈ってやって『ああ大丈夫よ』と、こうなれば、いっぺん先生が心配してくれたから、もう大丈夫だと思うわね。あんまり初めから心配しなかったら、なんだ、愛も仏もないと思いますよ」と話されていて、本当にその通りだと思いました。
 大きな台風が来るぞ!と、家のものがみんな心配して、備えをしなきゃなんて言ってる時に、自分一人が平然として、「そんなの心配ないだろ!」なんていったら、「何のんきなことを言ってんだ」と怒られてしまいます。心の中では、神さまが守って下さるから大丈夫と安心しているのはいいのだけれども、そこは家族に合わせて、「確かに、今回の台風は強そうだから、用心しないと危ないな」って、家族が台風の備えをするのを手伝ったほうがいいですよね。
 この世においては、全然心配しないというのも、常識の線から外れたり、人との調和に欠いてしまったりしますね。
 人間というのは面白いもので、体が悪い時なんかに、あんまり人から心配され過ぎるのも、かえって負担になってしんどくなりますが、逆に、全然心配されないのも、腹が立ったりするんですね。
 体がしんどい時に、家族や身近なものが、ちっとも自分のことを心配してくれない。そんなのなんでもないだろという態度を示されると、「この人は、私のことをちっとも気にかけてくれないで、冷たい愛のない人だ」と嫌な気持ちになることがありますね。
 相手が「大丈夫ですか、大変ですね」と心配してくれることで、「ああ、この人は私のことを思ってくれてるな」と相手の愛情を感じて、「ご心配下さり有難うございます。大丈夫ですよ」と気が楽になったりします。
 先ほどの続きで、「やっぱり、心配苦労はお互いにしていいと思うのよね。ただ、心配苦労の中に入っていっちゃダメ。心配苦労は消えてゆく姿。ああ、そうじゃないんだな、神様はちゃんと守って下さるんだなと。過去世の因縁で心配する、それが消えてゆく姿になって、片方では、神様がいつも守って下さるから大丈夫なんだなと光明思想にパッと変えちゃうわけです。そうすると、だんだん心配苦労する想いが消えていって、しまいにはあんまり心配しなくなるんですね。今度は愛情で心配苦労するような顔を見せてやる。そういうことになる。愛情で見せる場合もあるんですよ。それをやんないとだめです。それでだんだん立派になってくると本当の菩薩になるんです」と仰しゃっていました。
 心配という言葉を辞書で引くと、①これからどうなるか、何か起こりはしないかなどと気にすること。物事の先行きなどを気にして心を悩ますこと。不安がること。②心を配ること、心遣いと二通りの意味が出ています。
 普通、誰かが病気になったり、何か困難な状況にあったりして心配だというのは、相手のことを労わる愛情と、不安がる業の想いと、両方が混じってると思うんですよね。
 私たちも身近な人に何かあった場合、心配します。それは愛情の気持ちもありますし、この人はこの先大丈夫だろうかという不安の想いもあるわけですね。
 その時、「これも消えてゆく姿で、この方も、今はいろいろあって大変だろうけれども、これで過去世からの業が消えていって、必ず良くなっていくんだな。ますます命が光り輝いてこられるんだな。この人も神様の生命で、守護霊様、守護神様がちゃんとついて守って下さっているから、絶対に大丈夫なんだな。世界人類が平和でありますように、誰々さんの天命が完うされますように」と祈りの中に入っていく。そうすると、自分の中の心配不安な想いも減っていって消えていって、自分自身が安心立命していくし、相手にもさーっと光が流れていく。
 そういうことを続けていますと、他人のことで、不安がったり、心を悩ませたりする想いが減っていって、今度は愛情として、相手を心配するような顔を見せたり、言葉をかけることが自由にできるようになるわけです。
 五井先生のもとに、「今、うちの子供が高熱を出して、苦しんでるんです」と電話がかかってくる。それを、「そんなものは消えてゆく姿で、消えていって良くなるに決まってるじゃないか!大丈夫に決まってるだろ。何をそんなに心配してるんだ」なんて相手の気持ちをはねつけるような返事をしたら、冷淡ですよね。
 やっぱり、それは大変だね、さぞかし不安だろうねといったん相手の気持ちを受け止めて心配してみせて、その瞬間、もうその子供に、五井先生の大光明が強力に放射されているわけです。それで、「私が祈ってあげるから、大丈夫ですよ」という言葉が出て来る。その人は、五井先生が自分達のことを心配して下さり、大丈夫だと言って下さったから安心だと、心が楽になるわけですね。

 如是我聞にょぜがもんより
『続々如是我聞』(高橋英雄編著 白光出版)の一二九頁に、こういう話が出ています。
 「或る時、愛する弟子の一人が、ひどい病気のような状態で倒れ、苦しんでいた。先生は全く心配されて、その弟子の体をさすり、お祈りをなさった。その日は一日中、その弟子の体のことを気づかわれ、黙っていらっしゃる時間が長かった。
 『ご心配ですね』とお尋ねすると、『心配だよ。かわいそうにね、あんなに苦しんで……けれど私は本当は心配していないんだよ。本当に心配するけれど、本当は何も心配しない。只光明を放っているだけなんだよ。はたから見ると、オロオロしているように見えるくらい、真剣に心配しているだろう。確かに心配している。しかし心配していない。わかるかな?わからないだろうね』
 『ええわかりません』 
 『五井昌久という個人の肉体がここに見えるから、肉体の私がいるかというと、いないんだよ。こうやって私自身、肉体の想いがあるかな、我の想いがあるかな、とじっと見つめてみても、一つもその影も出て来ない。無いんだよ。
 只三十何才までの、いわば悟らない前の性格というものがあるでしょ。それを時に応じ、処に応じ、人に応じて、その過去の中の想いをヒヨッと出して来て、それを使っているんですよ。
 みんなは心配するといっても、シンパ――イとその心配そのものの中に入りこんで、ズーッと流れていってしまう。だから体がくたびれてしまう。私はそうじゃない。シンパイそれでもうおしまい。流れない。中にはまりこまないんですよ。それを知っているということは、把われていない、我がないということですよ。
 肉体の私と神界の私とが全く一つになってしまっているんです。そして五井先生となって、ここをじっと見つめて、過去の愛情の想いをヒヨッと取り出しては使って、心配を現わし、冗談をいう想いを取り出しては冗談をいっているんですよ、真実を明かせばね。といって芝居ではない。本当のことなのです。想いを自由自在に使えるんだな』。」
 私達の場合は、あの人が病気で苦しんでいる。心配だ、心配だと、心配そのものの中に入り込んでしまう。だから、自分もしんどくなってしまいます。
 五井先生はそうじゃない。愛弟子がひどい病気だ。ああ、かわいそうに、あんなに苦しんでと心配して気遣っておられるのだけれども、その中にはまりこんでない。ただ光を放っておられるだけなんですね。
 五井先生には、肉体の想いというのがない、空っぽなんですね。空となった五井先生の肉体を通して、そのまま神様の大光明が輝きわたっているわけです。
 だけども、弟子が病気で苦しんでも、信徒さんが苦しみを訴えてきても、全然心配しないような態度を取ったら、みんな五井先生に親しみを感じにくいですよね。やっぱり、先生が「ちゃんと生活は出来てるかい、体の具合はどうだい」と、自分達のことを何かと気にかけてくれることで、ああ、先生が私のことを思ってくれてるなというのがわかって、近しく感じるわけです。
 そこで、過去の、肉体の五井昌久という人の性格――いつも他人のことばかり気にかけていたような性格がありますね。そういう過去の愛情の想いを、神界の五井先生がひょっと取り出しては使って、時には、かわいそうに、あんなに苦しんでと、はたからみて、おろおろしているようにみえるぐらい、心配している姿を現される。だけども、本当は何も心配してない、光を放っておられるだけなんですね。  
 普通の人は、自分の想いに振り回されて、精神的に参ってしまう。五井先生はそうじゃない。心配なら、心配という愛情の想いを自由自在に使うことがおできになるわけです。

 『続・如是我聞』(高橋英雄編著 白光出版)の一五五頁に、こういう話も出てまいります。
 「肉体の想い、痛いとか苦しいとかいうのは、修行によってなくすことが出来る。しかし、そのために人々の苦しみ痛みというものがわからなくなってしまうということがある。例えば病気をして苦しんでいる人、痛がっている人にも『なんだそのくらい』と全然同情がなくなってしまう。相手の立場になってあげることが出来ない。私の場合は、あゝかわいそうだな、とその人にすぐ同情してしまう。といって、その人の業の渦の中に巻きこまれることは絶対ない。業の渦のしんがりにぴったりついて、相手の渦の通り動きながら、その業を浄めているのです。その姿は業にふりまわされているように見える時があるかもしれない。しかし私は業の渦の中にまきこまれることはないのです。ちょっとでも渦にまきこまれたら、私は一瞬として生きていられませんよ。」
 五井先生は地球世界の業を身に受けてお浄めになられ、肉体が激しくお痛みになられましたが、奥の手を使えば、肉体の痛みを感じないようにすることがおできになられたそうですね。だけども、それじゃ意味がない。五井先生が肉体の痛み苦しみを味わうことによって、人類の業が浄められるのだから、奥の手は使わないでくれと神様の方から、言われていたんだそうですね。
 もう一つは、先生ご自身が、病気のような症状を経験することで、この世で病気をして苦しんでいる人々への同情心がより深まることにもなるわけですね。
 五井先生は、お若いころは貧乏も体験されて、そういう人たちの気持ちが、よくおわかりになるわけです。ああ、大変だろうなとすぐ同情されるんだけども、その人の業の渦の中に巻き込まれることは絶対にないわけです。
 普通は、苦しんでいる人を見て、「ああ、病気でかわいそうに。家庭内の問題でこんなに辛い目にあって、かわいそうに。パレスチナやウクライナでは、何の罪もない子供たちが殺されてかわいそうに」といって、そのかわいそうな不幸な波の中に入っていって、自分も、その業の渦の中に巻き込まれていって、「ああ、辛い、悲しい」といって、苦しんでしまう。それでは自分の心も重くなるし、相手も明るく輝いてきませんね。
 五井先生は、相手の業の渦の通り動きながら、その業を浄めておられる。「先生、体が痛いんです。お金がなくて生活が苦しいんです。子供が問題ばかり起こすんです」と不安、苦しみをみんなが訴えて来る。その訴えを一つ一つ、愛念で聞いてあげながら、ああ大変だね、辛いだろうね、でも、私が祈ってあげるからね、大丈夫だよと励まし、光をお与え下さる。その人の本心が開かれるよう、信仰心が深まるよう導いていかれる。
 時には愛弟子がひどい病気の症状になった時、一日中、その弟子の体を気遣い、とても心配しているように見えることもあるわけですが、すべては愛情の現れであり、ご自身は神と一体となって、ただ光を放って自由自在に人を救う働きをなさっておられたわけです。
 五井先生は昭和四十年代の半ばごろまで、毎日何百名の人の相談とお浄めをされていました。一人一人が、悩み事、苦しみを訴えて来る。普通であれば、一人の人の業の渦に振り回されるだけでも、へとへとになってしまいますよね。
 それが毎日、何百名もの人の悩み苦しみを聞き、「ああ、この人は病気で心配だ。この人は、子供のことで悩まされてかわいそうに」とか思って、それに把われていたら、業の渦に巻き込まれて、身が持たなくなります。だけども、五井先生は、そういうことはなく、一人一人の業の動きに合わせながら、皆をお浄めになられていたわけです。

 神さまの光の中に入る
 高橋先生が、「一人一人の指導に、五井先生は本当に命をはっていらっしゃるわけだ。人を真実に指導することの、なんとむずかしいことよ」と書いておられました。
 私たちが人を指導するなんて言うと、その人よりも、自分の方が上にいるような感じがして、おこがましいですが、人を良き方向へ導くためには、どうすればよいかというと、まず自分自身が、いつも、神様の御心の中に入って、神と一体となって光になっていなければいけないですよね。
 「世界人類が平和でありますように、と祈った時はみなキリストなんですよ」と五井先生は仰しゃっています。キリストということは、神様の大光明を放っているということですから、平和の祈りを通して、神様の中に飛び込むわけです。
 五井先生は、人のことを心配するなとは仰しゃっておられません。母親が自分の子供のことを心配するのは無理もないよと言われます。愛情がなくて、人のことなんかどうだっていいと思って、ちっとも心配しないというのは、薄情なだけで悟ってるわけではない。やはり、愛情が深い人ほど、人のことを心配するし、かわいそうに、という同情心も湧いてくる。同情心というのは、相手を見下して憐れむことではなく、他人の身の上になって、その感情をともにすること。他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやって労わることですね。
 そう思った時、世界人類が平和でありますように、と神様の光の中に入ってしまうんですね。「この病気で苦しんでいる人も、家庭のことで悩んでいる人も、戦争で犠牲になっている子供たちも、何も、この人の本心が苦しんでいるわけではないんだ。本心は太陽のように光り輝いていて、人間は、みんな神様の分け命であって、神の生命そのものなんだ。自分は神より来た生命であるという真理を知らなかった、過去からの神さまの御心から離れたカルマの波が、今こうして、病気や様々な不調和となって、消え去るために現れてきているんだな。消えていくにしたがって、善くなってくるんだな。この人にも、守護霊さんがついていて、必ず良き方向へ導いて下さっているんだから、何も心配いらない。神さま、どうぞ、この方の天命が完うされますように、世界人類が平和でありますように」と祈ってしまう。
 あまり、自分がこの人を救わなきゃと息張らないほうがいいですよね。肉体の自分が救うんじゃありません。世界平和の祈りを祈れば、その場に救世の大光明が輝く。救世の大光明の神々様の方が、自分も、人も救って下さるんですよね。だから、神様が救って下さるんだな、有難うございますと、自分のことも人の運命も、全部、お任せしてお祈りすると良い。
 それを、「この人は、こういう大変な状況下でかわいそうに。私がこの人のことを救ってあげないと」と思い詰めていると、相手の波の中に入っていって、自分もしんどくなっちゃいますよね。相手の波を受けて、病気になっちゃったりします。だから、救って下さるのは、神様の方であることを忘れてはならないと思います。
 かわいそうに、かわいそうに、といって、かわいそうな波の中に入っていくのと、かわいそうにと一旦、同情しながら、ああ、この人も神様の分け命なんだ、世界人類が平和でありますようにと、神様の光の中に入っていくのとでは、天と地ほどの違いがあります。
 早く、この人の置かれている状況が良くなるようにと思っていても、神様の方から見ると、過去世からの因縁を現して消すために、どうしても、ある一定期間、そういった大変と思える事柄を経験しなきゃならないということもありますからね。すぐに良くならない方が、その人の本心開発のためにプラスすることもあります。だから、肉体側はあまり余計なことを思いすぎないで、息張らないで、神様の方がすべて良きようになさって下さるんだとお任せして祈っていくことが大事だと思います。
 先週、自分の想いが業の中に在るか、神様の御心の中に在るかによって、自分の運命も世界の運命も決まってくるという話をしましたが、そこが一番の根本で、自分であれ人であれ、どんな不調和な事柄や想いが現れてきても、ひたすら消えてゆく姿と思って、守護の神霊を思い、世界平和の祈りを祈り、五井先生に感謝することが、神様の御心の中に入っていることになり、自分の生命も、他人の生命も明るく輝かせることになります。

参考文献
『五井せんせい―我が師と歩み来たりし道』 高橋英雄著 白光出版
(風韻誌2024年5月号より)