―2023年5月14日、法話会より―
この日、五井先生のお話「弁解について」をお聞きしました。その中で五井先生は、白隠さん(江戸時代の禅僧)の話を取り上げておられます。先生のご著書『日本の心』にも、同じ逸話が紹介されているので、そのご文章も併せて紹介させて頂きました。
以下のような逸話です――「白隠に帰依していた豪商の娘が、定まる夫もないのに出産した。父親に責められた娘は、白隠が相手だといえば赦してもらえると思い、嘘を言った。激怒した豪商は、赤ちゃんを抱え寺に乗り込み、白隠を罵倒して、その子を押し付けて帰ってしまった。白隠は何も言わずに、自分の児のように愛し育てていた。人はみな白隠の子だと思い、一時は寺を追われる身になったが、後に娘が豪商に真実を告白。驚いた豪商は、白隠の下に駆け付け赦しを請うたが、白隠は、『この児にも父があったのか』とニコニコして意に介する風はなかった。」
この五井先生のご法話を受けて、私がお話しした内容を紹介させて頂きます。
生兵法は怪我のもと
白隠さんは、臨済宗中興の祖と呼ばれたお坊さんですね。聖人として多くの人に崇めたてられている立場にありながら、その名声を失ってしまうような、とんだ濡れ衣を着せられるのは、普通であれば耐えられるものではありません。普通は「私がそんなことするわけないじゃないか」と必死になって弁明して、自分の立場を守ろうとすると思います。
この世の中には、自分が悪いのに、自分をかばおうとして、非を認めないで言い訳ばかりする人も多くいます。時には、自分の失敗を人のせいにして、自分の罪を他の人になすりつけてしまう。「私がやったんじゃない、部下が勝手にやったことだ」なんていう政治家や企業家もよくいます。
そういう汚れた業生の世界にあって、このような白隠さんの逸話を聞くと、心が洗われるような思いがいたします。
「人間の行為というものは、千万言の説法にも勝るものです」と五井先生が書いておられるように、たとえ、宗教者が、言葉で、いくら素晴らしい真理の話をしたとしても、肝心のその人の普段の行いがなっていない……例えば、「愛の心が大切です。人を愛さなければいけません」と説きながら、自分自身が、思いやりに欠けた行いばかりしていたのでは、その宗教者は本物とは言えないですよね。
本当に悟っていない人は、自分ができもしない偉そうなことを、説法することが多いのですが、聖者方というのは、言葉と行いが一致しているんですね。イエス様は、「汝の敵を愛せよ」と説きました。
その言葉通り、イエス様は、自分を十字架に追いやった、憎んでもあまりあるようなものさえ、「神さま、どうか、この者たちを赦して下さい」と祈って、真実に愛し、救おうとした、その愛そのものの行為に人は心を打たれるわけです。
行為が説法そのものである、自分自身の行いによって、世の人々に大きな光の感化を与えていくのが、五井先生をはじめとした聖者方のありかたですね。
白隠さんの行為は立派で、感動させられますが、さて、自分自身が、こういうようなことが真似できるか。聖人の行為に感激するのはいいですが、その話を真に受けて、いついかなる時も、絶対に弁解してはいけないんだ、と思わなくたっていいんですよね。
もし、実際に自分が同じ目にあったら、常識的に、「私はその子の親ではありませんので、引き取ることは出来ません」と言った方が良いです。
「生兵法は怪我のもと」ということわざを五井先生は引きあいに出しておられました。中途半端な知識や技術に頼って行動を起こすと、何も知らないよりも失敗することがある、という意味です。「昔の聖者はこの時、こういう行いをした。すばらしいから、私も同じことがあったら、同じようなことをしよう」と思って、下手に聖者のやったことを真似すると、かえって自分が苦しんでしまうことがあるんですね。
白隠さんの場合は、本当に悟っておられたので、一方的に責め立てられ、赤ん坊を押し付けられても、少しも怒らず、ただ、その子への深い慈愛の心が溢れて来るだけで、まわりの人から、「偉いお坊さんだと思っていたけれども、とんだ破廉恥な行いをする生臭坊主だった」と陰口をたたかれても、お寺から追い出されても、不平不満や苦悩の想いを起こさず、自分の身に振りかかってきた思わぬ災難を、すべてみ仏の御心、天意と受け止めて、男手で、赤ちゃんを我が子のように育てていかれたので、これは、確かに素晴らしいです。誰にでもできることではありません。
聖人の素晴らしい行いというのは、自然に、何の無理もなく、自然法爾になされるのであって、こうしなければいけない、と思ってやってるんじゃないんですよね。それを、自分はまだ、そこまでの心境になってないのに、形だけ、昔の聖者のやったことを真似しようとしても、無理があるので、自分が辛くなってしまうか、長続きしません。
相手から、お前はなんて奴だと一方的に責められて、私は悪くないんだけども、こういう時は、言い訳をしてはいけないんだと思って、腹が立つのを抑えて、黙って言い返さないで、そのことで、みんなから悪く思われるようになってしまった。自分には何も非がないのだから、あの時、ちゃんと丁寧に説明していたら、向こうもわかってくれたかもしれないのに、弁解しなかったために、誤解されたままで、みんなからも陰口をたたかれるようになって、辛い、なんてことになっちゃいますね。
自分は五の心境なのに、百の心境の人のやったことと、同じようなことをしようたって、それは無理なんです。自分に何もやましいことがないのなら、ちゃんと自分の身の潔白を晴らすために、弁解していいと思いますよね。
ただ、五井先生も仰しゃっていましたけれども、こちらがいくら言っても、相手が聞かないことがありますよね。向こうが頭に血が上ってしまっていて、こちらがそれはそうじゃないんです、と弁解すればするほど逆上して、なぜ、そんな言い訳をするのか、とますます悪く思ってくる、こちらが何を言っても、悪いように受け取られて、取りつく島がないことがありますね。
その時は、無理に、それ以上、弁解しようと思わないで、これも、何か、お互いの因縁の現れては消えてゆく姿だと思って、平和の祈りを祈ったら良いと思いますね。
それで、時間がたったら、相手が気付くこともあるかもしれません。白隠さんだって、その時は、娘の父親が白隠のことを激しく責め立てたのが、後になって真実に気づいて、私が間違っていました、申し訳ありません、と謝ってきたわけです。だから、神さまに頼んで、時期を待った方がいいこともありますね。
結局、自分のことを悪く思われたくないものだから、必死になって、慌てて、弁解しようとする。そうすると、相手が余計に疑ったりする。だから、そういう時こそ、よく世界平和の祈りを祈って、五井先生を深く思って、想いを鎮めることです。
祈りの中から心に余裕をもって、これはこういうことなんです、と落ち着いて説明すれば、向こうもわかってくれるし、それでも相手が納得しなくて、今は何を言ってもダメだということであれば、守護霊様、守護神様にお任せして、時期を待つ。平和の祈りを祈って、相手の天命完うを祈ることですよね。そうしたら、神さまは必ず良いようにしてくださいます。
私も、自分のことを悪く思われたくないという想いがあって、悪く思われることを恐れ、辛く感じるわけですが、でも、本当は悪く思われたっていいんですよね。自分が、本当に神さまの御心と一つになった生き方をしていれば、一時は、勘違いから悪く思われることがあっても、やがて、「ああ、この人は本当に良い、立派な人だな。あの時、私がこの人を悪いように思ったのは間違いだった」と評価が改まることだってあります。
聖者方が、人から全然悪く思われなかったかというと、そんなことはありません。お釈迦様や五井先生のような、神我一体を得た人であれば、誰からも慕われ、良く思われたんじゃないかと思いますが、さにあらず、やっぱり悪く言ってくる人たちがいたわけですよね。
自分に何もやましいところがないのであれば、そのことは、神さまが一番よくわかってらっしゃるんですからね。人からどう思われるかより、神さまからどう思われるか、神さまに良く思って頂けるような生き方を心がけることが大事だと思いますよね。
言い訳しちゃいけないというのは、明らかに自分に非があって、悪いことをしたのに、なんだかんだと理由をつけて、いや、私は悪くないと言って、自分を庇おうとする。それはよくないです。よくないんだけども、そういうことを、私もしてしまうことがあります。
肉体の自分を庇おうとする、自己保存の本能より生じたカルマの想いが人間には根深くありますから、それが出てきてしまうわけです。それは、やっぱり、消えてゆく姿にして祈っていかないといけないですよね。
自分の心境に正直であれ
ご法話の中で五井先生は「自分の心境をごまかしたんじゃ駄目で、自分の心境に正直であって、それが恥ずかしかったのであれば、それをもっと高めるような、心境をあげる努力をしなければならない」と仰しゃっておられました。
自分の心境に正直でも、開き直っていたらしょうがないですよね。自分は不平不満の想いが一杯あって、いつも愚痴ばかり言っている。それで一体何が悪いんだといって、少しも、自分を高める努力をしなければ、それ以上、立派になるわけがないですからね。
私は些細な事で不平不満ばかり言ってるな。ああ、こういう心境では恥ずかしいな、この不平の想いは、消えてゆく姿と思って、平和の祈りを一生懸命祈って、もっと感謝できるような人間になっていけるよう精進してまいりましょう。こういうように、今より、もっと立派な人間になりたいという向上心があるのが、いいわけですよね。
続けて「自分が五のものなら五でいいんです。五が立派に出せる人は、また六になり七になり、進歩していきます。自分が五であるのに、あたかも八であるように見せようとすると、五より以下になっていきます」と五井先生は言っておられます。
講話集『生命光り輝け』の19ページにも、「一番の悪は自分を偽ることです。自分が五なら五の者であると、真裸の自分を現わし、そして更に、それですから八あるいは十になろうと思って努力していますと、ハッキリさせることです」とあります。
それが、自分が五の心境なのに、もっと高い十や百ぐらいの心境であるように見せようとしてしまうことがあるんですね。
人のやったことを赦せないで、ずいぶん前に人からされたこと、言われたことを、いつまでも根に持って、「あの人はなんだ」と悪く思い続けているような性質が、自分の中にあるとしますね。些細なことでも、人からされたことを赦せないで、恨んでしまう。
ところが、その自分の低い心を隠して、「人を愛さなきゃいけません。赦せなきゃいけません。なんですか、そんなにいつまでも人のことを悪く思って」なんて偉そうに人にお説教してしまうことがあるんですね。
実際には、自分は人を赦せないで根に持ってしまう五ぐらいの心境なのに、いかにも、自分はすべての人を愛し、赦すことができているような、十や百ぐらいの心境であるように見せてしまう。そうしますと、それは、自分で自分の心をごまかしている、偽っていることになってしまいます。
その様子を傍の、その人のことをよく知っている人が見たら、「なんだ、あいつは。自分がそうなれてないのに、口先だけ偉そうなこと言って」と反発されちゃいますね。
それを正直に、自分の心境を見て、「私は、人からされたことを根に持って恨んでしまうことがあります。中々赦せないことも多いです。でも、人を赦せないで悪く思ってしまう想いも消えてゆく姿と思って、一生懸命平和の祈りを祈って、神さまの中にお返しして、本当の愛と赦しの人になれるように精進しています」というのなら、反発されませんよね。
それを聞いて、「なんだ、この人はまだ、こんな低い心境なのか」なんて思いやしません。「この人は、自分の心境を、ごまかさないで、正直に見て、もっと高い心境になれるように、努力なさっているんだな、私もこの人を見習って、五井先生の説かれたことを、一歩一歩行じていこう」と思いますよね。
それで、人にされたことを赦せないで、いつまでも恨んでしまうような想いを、消えてゆく姿にして、うまずたゆまず祈り続けていけば、祈りの大光明の中で、自然に、その想いが浄まっていって、次第に、何されても、ああ、これは消えてゆく姿と思って、さらりと、祈りの中にお返しして、いつまでも、そのことにとらわれない、さっぱりした人間になってゆく、本当に、心から人を赦せるような、愛の深い人間になっていく。
人からされた嫌なことや、それを根に持つ想いを、消えてゆく姿と思って、平和の祈りを祈っていくこと自体が、そのまま人を赦していく行為であるともいえます。
低い心境というのも、やっぱり現れては消えてゆく姿であって、本心の方は愛に充ち溢れています。五井先生の説かれたことを行じていることで、低い心境は消え去り、次第に本心の愛に溢れた姿が現れてきて、自然に高い心境に導かれていくものと思います。
(風韻誌2023年7月号より)